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2026-01-22

不破哲三さんと私 その1

名前は子どもの頃から知っていた

昨年末、不破哲三さんが亡くなりました。

叔父である大庭豊が共産党の市議会議員だったので、物心ついたときには赤旗日曜版が家にありました。

ですから、不破哲三という名前は小学生の頃から知っていたと思います。

最初に買った本は

そこからぐっと近づいたのは、高校2年生の時、日本民主青年同盟に加盟してからです。共産党が躍進した1979年の翌年(1980年)でした*1)

不破さんの本で最初に買ったのは『人民的議会主義』(1970年、新日本出版社)です。

当時、生徒会活動に明け暮れていた私は、活動のなにかヒントになるのではないかと思ったのですが、そういう点ではあてが外れました。

しかし、今回、改めて手にしてみると「レーニンと議会主義」「自治体活動と人民的な議会主義」「政策活動の前進のために」「日本革命と議会の問題」など、その後の活動のなかで繰り返し読んできた文献が本書に収録されていることに気づきました。

日本武道館を青年で埋める

これらの文献についても紹介したいと思いますが、高校生の頃に読んで、印象深かった「科学的社会主義と日本の進路」から始めたいと思います。

これは『人民的議会主義』には収録されていません。私が読んだのは、オレンジ色の表紙だったと思いますが、B6版パンフレットで、いつの間にかどこかにいってしまいました*2)

この論考は1974年、日本武道館で開催された、「日本民主青年同盟・秋の大学習集会」の講演録です。

この年、共産党として5月、8月と、武道館で集会を開催し、10月に青年だけで武道館を埋めました。共産党が1万人規模の集会を2つ成功させ、掉尾を飾ったのがこの青年学習集会だったのです。

科学的社会主義の全体像をつかむ

この論考は、①科学的社会主義とは何か、②日本における科学的社会主義の党=日本共産党が果たしてきた役割、③日本共産党綱領の特徴、という3つの柱で構成されています。

科学的社会主義の理論から今日の共産党、そして未来の日本社会の発展の筋道を一貫したものとして理解できるということに本論考の意義があります。

今回、改めて読み直しましたが、「革新の上げ潮の時期」の高揚感が伝わってくるとともに、その内容はあまり古くなっていないと思いました。この講演から半世紀が経ち、その間にはソ連・東欧の崩壊もあるわけですが、基本的な観点で変更が必要なことは一つもありません。

科学的社会主義の神髄とは

不破さんは、科学的社会主義の神髄はどこにあるのかについて次のように述べています。

「われわれの理論は、けっしてなまけ者の理論ではありえない。マルクスやエンゲルスやレーニンがつくりあげ、発展させた世界観、方法、それを自分の身につけて、その武器でわれわれが目の前でぶつかっているわれわれの社会、われわれの歴史、われわれの運動を分析して、その社会における科学的社会主義の理論をつくりあげる。これが科学的社会主義であります」*3)

マルクスやエンゲルス、そしてレーニンなどが言ったことをけっして鵜呑みにしない。あくまで現代日本の置かれている条件のなかで考えていくのだと言います。

「わたしたちは日本の社会や運動について、『われわれはどんな外国の革命運動や社会主義の経験もモデルにしないし、機械的なあてはめはしない。自主独立の立場をつらぬき、科学的社会主義の理論に立ち、自分の頭で考えて、日本の社会の発展や運動の理論をつくりあげるんだ』ということを、この十数年来天下に宣言してきましたが、この自主独立の精神は、その意味では新しいものではなく、科学的社会主義が生まれた最初からの本来の精神であります」(同39-40頁)。

マルクスの時代に普通選挙権はなかった

一番納得したのは革命運動と普通選挙権の関係です。

「わたしたちはいま、日本で革命運動をやるばあい、議会闘争・選挙闘争というものをたいへん重視しています。民主連合政府をつくる、あるいはもっとすすんで革命の政府をつくり、社会主義の政権をつくるというばあいでも、われわれは選挙で反動勢力をうちやぶって、国民の多数の支持のもとに、国会で安定した過半数をしめて、正々堂々と政権をつくるだろう、このことを内外に明らかにしています」*4)

しかし、そういうことを、マルクスやエンゲルス、レーニンが言っていたわけではありません*5)

だから、自民党などは「日本共産党はウソを言っている。本当は暴力革命を狙っている」と言い、中核や革マルなどニセ左翼は「日共は日和見だ。闘うつもりがない」と攻撃してきたわけです。

こういう批判に対して、不破さんは次のように反論にします。

「なぜマルクスが『共産党言言』で選挙を重視しなかったのでしょうか。答はかんたんです。当時はいまの日本のような普通選挙権や、それで選ばれる議会などというものは、世界の大部分の国になかったのです」*6)

「イギリスで、労働者のかなりの部分に選挙権があたえられるようになったのは、1884年、マルクスが死んだ翌年です。差別はあるが婦人に選挙権があたえられるようになったのは、1918年、ロシア革命の翌年で、男と女の差別が全くなくなっだのは1928年、まだそれから50年もたっていないんです」*7)

なるほど普通選挙権がないのにマルクスやエンゲルスが「議会で多数を占めよ」と言うわけがない。高校生にも大変良くわかる説明でした。

古典の読み方

不破さんのこの指摘は、古典を読む指針ともなりました。マルクスなどが言っているから「正しい」、言ってないから「間違っている」というふうに判断してはならない。肝心なのは「いま」「ここで」であって、自分(たち)の頭で考えること、主体的に読むことなのだと。

「金科玉条」「教条主義」という言葉を知ったのもこの頃でした。

*1)1979年衆議院選挙は、76年の19議席から41議席に倍化(残念ながら、翌80年には29議席に減少した)。
*2)『青年と語る 科学的社会主義と日本の未来』(1975年、新日本新書)に収録。
*3)『青年と語る』39頁。
*4)『青年と語る』40頁。
*5)「議会の多数をえての革命」という可能性を追求する努力がマルクスとエンゲルスによって続けられましたが、完成された著作に明確な形で示されることはありませんでした。
*6)『青年と語る』41頁。
*7)同42頁。

ふたみ伸吾 ほっとらいん

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