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20年も心待ちにしていた

 

本書『マルクスに拠ってマルクスを編む』が出ることを、私は20年も前から心待ちにしていた。

その理由は後ほど述べるが、私が久留間鮫造氏の名前と『マルクス経済学レキシコン』について知ったのは、高校生の時に読んだ『現代日本と社会主義への道』(上田耕一郎著)によってであった。

「大正の末ごろから『資本論』、剰余価値学説史』などのなかから、いやしくも恐慌に関連する個所は残らず抜き書きしてカードにタイプする仕事をはじめ、うまずたゆまず続けてきました。……この碩学の50年におよぶ持続的努力の結晶が、だれにでもできる形で世に出て、現代資本主義の分析求められている理論的武器を鍛えるための貢献になっている」(60-61ページ)。1945年の東京空襲で、いったん灰燼に帰したものの戦後ふたたび、一からカード化したことも紹介されている。

 

法政大学に入学した年に久留間氏亡くなる

 

私が大学受験にあたって法政大学経済学部を志望したのは、久留間氏をはじめとしてマルクス経済学の一流の研究者がいる大学だからであった。願いかなって、1982年に法政大学の門をくぐることになるのだが、残念ながら久留間氏はその年の10月20日に亡くなられた。

本書の冒頭、第1部におかれている「久留間鮫造先生の生涯と業績」は、私が大学に入学した年に、著者大谷禎之介氏が経済・経営ゼミナール大会で講演したものである。残念ながら事情があってこの大会に参加できなかったのだが、幸いなことに法政大学通信教育部の月報『法政通信』にその内容が掲載され、その内容を知ることができた。

この月報はいまでも大切にとってあり、ときおり読み返しては、自分を戒め、そして励ましてきたのだ。

 

学び、研究するとは

 

そこに述べられているのは久留間氏の生涯と業績を通じての学問論、学び、研究するとはどういうことなのか、ということである(本書を貫くテーマでもある)。

マルクスは『資本論』のあとがきで「素材を詳細にわがものとし、……それらの発展諸形態の内的紐帯をさぐりだ」すことの大切さを強調しているが、久留間氏の研究方法=研究態度はその見本とも言えるものだろう。

「マルクスを読んでよくわからなかったときに、それを簡単にマルクスのおかしさにして片づけるのではなくて、マルクスの真意をマルクス自身のなかから見つけ出すためにとことんまで考えようとされる、そのためにはどんな苦労も厭わない」(29ページ)。

 

世界を変えるために正しく読み、解釈する

 

たんねんにマルクスを読み、その正確な解釈、マルクスの真意を読み取ろうとしていた久留間氏ですが、その仕事に対して「解釈学」だとか「実践的でない」という批判があったという。

なかには有名なフォイエルバッハテーゼ「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのはそれを変えることである」を引き合いに出して揶揄(やゆ)する人もいたとか。

私が当時、もっとも感銘を受けたのは、そのことに対する大谷氏の反論だ。

「先生は世界を変えることが大事だからこそマルクスを正しく読み、正しく解釈することが大事なのだ、と考え続けてこられたのです」(41ページ)。

誤った理論に基づく実践、理論を軽視し、軽蔑する実践がどこへゆくのか。

都合のいいところだけをつなぎ合わせつくり出された「マルクス・レーニン主義」という名のスターリン主義の帰結が、ソ連・東欧の崩壊だったのである。

 

輝き増す『レキシコン』

 

まだ、私たちのなかにも「マルクス・レーニン主義」の残りカスやしっぽが残っていて、その本格的な克服はこれからの課題だと思う。

しかし、日本の科学的社会主義の実践と理論は、ソ連流の「理論」からの離脱をかなり以前から進んできたのだ。

そのど真ん中に久留間氏の仕事がある。

大谷氏はソ連・東欧の崩壊直後の1992年次のように述べている。

「『レキシコンの編者はけっしてスターリンの『マルクス・レーニン主義』に棹さすことがなかったのであり、どのような理論外的合唱によっても左右されることのなかったその自立的思考にますます輝きを増している。『レキシコン』は、『博物館』に収まるどころか、マルクスの思想と同じく、資本主義社会が存在するかぎり、生き、働き続けていくことであろう」(104ページ)。

だから、残りカスをきれいに洗い流すために、久留間氏の仕事は役に立つはずだ。

 

ようやく念願がかなった

 

冒頭で本書が出ることを「私は20年も前から心待ちにしていた」と書いた。

それは、先ほども紹介した講演録「久留間鮫造先生の生涯と業績」が掲載されたのが、通信教育の月報だったため、ごく限られた人しか読まれず、その存在すら知られていないからだ。

「本に収められたらいいな。この素晴らしい内容を多くの人に読んでほしい」と思い続けて20年。労働者教育を仕事とするようになってその思いはさらに強まった。そしてようやく、念願がかなったのだ。広告がでたとき「いよいよ出るのだ」と小躍りした。

本書は3部構成となっており、第1部では生涯と業績が概観され、第2部では、より詳しく久留間氏とレキシコンについて説明されている。第2部冒頭の久留間氏を囲んでの座談会も興味深い。

第3部は、レキシコンの編集協力者であった大谷氏がその栞(しおり)に書いたもの2つと学会報告が一つ収められている。

 

久留間氏の著作の復刊を望む

 

大谷氏は「あとがき」で「(久留間氏の)著書のほとんどが品切れのままで増刷されておらず、いずれも入手がきわめて困難」であることを惜しまれているが、まったく同感である。

私じしんも『経済学史』、『恐慌論研究』、『貨幣論』の3冊は古書店で入手した。『価値形態論と交換過程論』は、『資本論』の第1篇「商品と貨幣」を理解するうえで「必読文献」だと言われているが、古書でさえ入手できず、学生時代にコピーしたものをいまだに使っている(少なくても20年以上増刷されていないはずだ)。復刊を望みたい。

出版社は売れる見通しがあれば増刷するであろう。経済学学習の広がりをつくり出すことが近道なのかもしれない。そのうえでも、本書『マルクスに拠ってマルクスを編む』が広く読まれることを期待したい。

いま、不破哲三氏の三部作(『エンゲルスと資本論』『レーニンと資本論』『マルクスと資本論』)に触発されて『資本論』学習は新たなブームになろうとしている。

古典を虚心に「それ自身の歴史のなかで読む」ことが求められているが、そういう内在的方法の先駆として、久留間氏の仕事は位置づけられると思う。

不破氏の研究などに触発されて、新たに経済学を学びつつある方、学ぼうとされている方、とりわけ青年に本書を読んで欲しい。

大月書店/定価(本体2.800円+税)

【広島県労働者学習協議会/一粒の麦 2003.10.25 掲載】