●生徒会活動に打ち込む 中学時代
1976年、伊勢原中学校に入学。私が入学する少し前に万引き事件が起こり、週刊誌に「なぜこのような田舎の学校で」などと書かれました。先生方は力で押さえつけるのではなく、生徒の自治的活動を促して、それを乗り越えるちからを生徒たちにつけさせようとしました。
わたしは生徒会活動改革のまっただなかに中学に入学し、中3のときに生徒会本部役員になりました。生徒会会則の改正、体育祭や文化祭の改革。熱心に論議して、その結果に基づいてどんどん変わっていく。みんなで論議して、みんなで決めて、ひとつのものをつくりあげる。これほど面白いものはありません。わたしが民主主義が大好きなのは、この中学校の体験からです。
ある日、生徒会顧問の先生が、「伸吾ちゃんはこういうのが好きでしょう」と『あたらしい憲法のはなし』の復刻版をくれました。日本国憲法制定直後に数年しか使われなかった文部省がつくった中学校社会科の教科書です。表紙がとれてぼろぼろですが今でも持っています。日本国憲法も大好きになりました。
●社会変革への道を 高校時代
79年、神奈川県立秦野高校に入学。柔道部に入りましたが、先輩に絞め技をかけられ、絞め技恐怖症になって登校拒否気味に。柔道部はやめましたが、毎日学校に行けるようになる頃には、すっかり落ちこぼれになっていました。一学年450人中400番台。
生徒会役員は1年からずっとやっていましたが、中学校の時ほど盛り上がらず、「自分が関われば活性化できる」という自信はもろくも崩れました。このとき「組織や運動が活性化したり衰退するのは何によるのか」という問題意識がめばえ、53歳になった今もずっとそれを探求しています。
高校2年生のとき、民青(日本民主青年同盟)に誘われ、加盟しました。叔父が共産党の議員をしていたことから、その関係でわたしに声がかかったようです。叔父のことは別項で話します。
民青は共産党の導きをうけ、科学的社会主義を学び、民主的な運動に取り組む組織です。
この頃はソ連も東欧も「健在」。オリンピックでメダルもたくさん取っていて、先輩方は「社会主義の優位性」について語りました。しかし、社会主義国には、わたしの大好きな自由と民主主義があるとはどうみても思えません。「日本共産党がめざす自由と民主主義が花開く社会には賛同するが、社会主義や共産主義になるのは嫌だ」と断りました。
その後も熱心に誘ってもらい、「民青は独立・民主の日本をめざすが社会主義を目的としない」ということで、入ったのです。独立・民主の日本とは、アメリカいいなりにならず大企業の横暴も許さない、国民が主人公になる社会ということです。
民青では、高校生班(そう「大地」という名前でしたね)をつくり、「高校生 夏の講座」に取り組んだりしました。原爆のしくみについて学び、英語の授業ではウイシャル・オーバーカムを教えてもらったり。アニメーション映画「ピカドン」を上映する予定だったんですが、映写機の操作を誤り、フィルムを傷つけてしまい、結局上映できないというアクシデントも。
学習していくと、日本共産党のめざす未来社会は、ソ連や東欧、中国などと全く違うということが分かってきました。不破哲三さんの『人民的議会主義』や上田耕一郎さんの『現代日本と社会主義への道』などを読んで、自由と民主主義を大切にし、議会を通じて世の中を変えていくこと、その先に社会主義が展望されていることが分かりました。とても尊敬している人が共産党員だったこともあり、「自分もあの人のようになりたい」と共産党員になることを決意。誰にも誘われていませんでしたが、共産党員になれる18歳の誕生日を待って入党しました。