「思想が強い」の向こうへ

Illustration: Chappy
思想が強い?
若い人たちのあいだで、政治や社会について語る人を「思想が強い」と呼ぶことがあると知り、驚きました。
人間や社会、世界をどのように捉え、どうあるべきだと考えるか。
体系的な思想を学んでいるかどうかはさておき、誰もが、その人なりの思想を持っています。
思想に「強い」「弱い」があるとは、いったいどういうことなのでしょうか。
この「思想が強い」は、政治や社会について意見を述べる人を否定し、遠ざけるための言葉のようです。
「二見は偏っている」というのと似ています。
ええ、学生時代によく言われました(笑)。
ということは、少なくとも40年前には、政治や社会を語ることを忌避する風潮があったということです。
少し考えてみると、さらに長い歴史があり、さまざまな社会の動きがあって、それらが幾重にも重なって「思想が強い」という表現を生み出したのではないかと思います。
思想が犯罪とされた時代
1925年、治安維持法が制定されました。
国家が危険とみなす思想を持ち、それに基づいて政治に関わることが犯罪とされ、検挙された人びとは「思想犯」と呼ばれました。
1928年の「改正」では、最高刑が死刑または無期懲役に引き上げられます。
『蟹工船』で有名な作家の小林多喜二は1933年、特高警察の拷問によって虐殺されました。
ファシズム批判を展開した哲学者、戸坂潤は1937年に執筆を禁じられ、翌年、治安維持法により検挙されました。1945年8月9日、長野刑務所で獄死しています。
思想を持ち、政治に関わることは命がけでした。
だから、多くの人びとが政治や思想に関わるまいとしたのは、ある意味では当然だったのかもしれません。
思想や政治を忌避する傾向には、少なくとも100年の歴史があるのです。
「政治の季節」
1945年に戦争は終わり、治安維持法も廃止されました。
閉じ込められていた国民のエネルギーは噴出しました。
日本国憲法のもとでさまざまな権利を獲得し、要求を実現する運動が盛り上がります。戦後日本における最初の「政治の季節」の到来です。
その後、60年安保を頂点とする二番目の「政治の季節」、国民春闘や革新自治体の誕生など、1960年代後半から70年代前半にかけての第三の「政治の季節」が訪れました。
職場や学校、居酒屋など、日常のさまざまな場所で、政治が普通に語られていました。
『思想とは何か』『日本の思想』といった本も広く読まれました。
政治や思想を語る敷居は、ぐっと低くなったのです。
政治と思想を忌避する
しかし、1970年代後半以降、政治や社会をよくしようとする運動は停滞していきます。
その後、今日に至るまで、先ほど挙げた三つの時期に相当するほどの「政治の季節」は訪れていません。
労働組合や政治運動が衰退すれば、当然、仲間と政治を語る機会も少なくなります。
家庭でも職場でも学校でも、政治談議に花が咲くことはなくなりました。
政治や思想を語る敷居は、再び高くなったのです。
1980年代には、「いじめ」が大きな社会問題となりました。そのなかで、集団から「浮く」ことへの恐れも強く意識されるようになります。
大人の社会でも、企業の方針に反対した労働者や、特定の労働組合に所属する人への選別や差別が行われました。子どもの社会にも大人の社会にも、強い同調圧力がかかったのです。
政治について関心がないわけではない。
しかし、政治について語って「変わった人」とみられたくない。集団から浮きたくない。差別されたくない。だから語らない、となるわけです。
SNSがこの状況に輪をかけます。
SNS上の政治論議は、しばしば誹謗中傷や罵倒の応酬になります。
その光景は、政治や思想は怖く、近づかないほうがよいという考えを、いっそう強める役割を果たしています。
戦前から存在した、政治や思想を避けようとする傾向は、戦後の運動の波、「政治の季節」によって乗り越えられたかのようにみえました。
しかし、1970年代後半から運動が停滞すると、それは再び表面に現れます。
そこへ、集団から浮くことへの恐れや、SNSにおける政治論議の困難が影響し合い、その今日における一つの到達点として、「思想が強い」という否定的な言葉が生まれたのではないか。そう思うわけです。
だから、けっこう根が深い。
仮に「思想が強い」という言葉が使われなくなったとしても、それに代わる何かが出てくるでしょう。
『銀河の一票』
では、政治や思想は、いつまでも忌避され続けるのでしょうか。
今年、2026年の春、ドラマ『銀河の一票』(脚本・蛭田直美、プロデュース・佐野亜裕美)が放送されました。
“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”
宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』からの引用をモットーに、都知事選に打って出た人たちの物語です。
「きれいごとじゃないよ、きれいなことだよ」
「不完全な私たちが、不完全なまま安心して希望を持てる社会」
失敗しても安心して休み、また歩き出せる社会。自分のことで精いっぱいにならず、誰かを思いやれる社会。人生のどの段階にあっても、安心して挑戦できる社会――。
ドラマで語られた言葉に、多くの視聴者が共感しました。
やさしい言葉ですが、その底に流れているのは、紛れもない思想であり、政治です。
そして、このドラマそのものが、都知事選という政治をテーマにしています。
政治や思想を正面から描いたこのドラマが評価されたことは、「思想が強い」と言って政治や思想を忌避する傾向が、社会のすべてを覆っているわけではないことを示しているのではないでしょうか。
ひょっとすると、そういう言葉を使って身を守っている人も、このドラマを見て涙しているかもしれません。
人びとが思想を失ったわけではありません。政治について考え、よりよい社会を願う心も消えてはいないのです。
このドラマが示したように、生活と政治、政治と思想、思想と行動を、もう一度つなぎ直す。
その努力が、私たちに求められているのではないでしょうか。












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