下岡田官衙遺跡の「保存活用計画」について 2024年12月議会 一般質問
もくじ
以下の原稿は、府中町議会の公式記録ではありません。また、年号については引用を除き西暦に統一しています。
下岡田遺跡の発掘現場
◆はじめに
下岡田官衙遺跡が2021年に国史跡に指定されました。
文化庁のホームページによりますと国史跡は全国で1,904件で、「厳島」などの特別史跡が64件。広島県内は史跡51件、特別史跡が2件です。
「貝塚、古墳、都城跡(とじょうし)、城跡、旧宅、その他の遺跡で、我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの」(「文化財保護法」第2条)が国史跡に指定される、と文化庁ホームページに書かれています。
歴史上または学術上価値が高く、重要なものとして下岡田官衙遺跡が認められたということです。
当町教育委員会は国史跡指定の前年(2020年)に『下岡田遺跡発掘調査報告書Ⅰ』(以下、『報告書』と略記)をまとめ、今年3月、『史跡下岡田官衙遺跡保存活用計画』(以下、『保存活用計画』と略記)を策定しました。いずれも大変充実した、読み応えのある、計画であり報告書です。
今回は、この2つの文書を中心にしながら、下岡田遺跡の過去・現在・未来について質問したいと思います。
1.下岡田官衙遺跡の「本質的価値」
◆指定説明文と史跡の「本質的価値」
史跡は文化審議会の答申を経て、文部科学大臣が指定しますが、なぜ国の史跡としてふさわしいのか、学術的価値や重要性、保存の意義などが「指定説明文」として示されます。「指定説明文」は「保存活用計画」の41-42頁に載っていますが、結論として次のように述べています。
下岡田官街遺跡は山陽道駅路(えきろ)に沿った陸海交通の要衝に立地する安芸駅家(あきのうまや)の可能性が高い官衙遺跡である。また、昭和 30 年代から駅家の可能性が高い遺跡として本格的な発掘調査が実施されるなど、山陽道の交通史研究における学史的な意義も大きく、発掘調査成果から2段階の遺跡の変遷が明らかになるなど、山陽道沿線における官衙の展開を知る上でも重要な遺跡である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである*1)。
*1)「保存活用計画」41-42頁。文化庁監修『月刊文化財』 2021 年2月号、第一法規、16-17頁。
安芸の駅家の可能性が高いこと、山陽道の交通史、山陽道沿線における官衙――官衙とは役場のことですが――官衙の役割を明らかにするうえで重要な意味をもつ、という3点が下岡田官衙遺跡の「本質的価値」です。史跡の「本質的価値」とは、その史跡が史跡として指定される、かけがえのない値打ちを意味します。
「保存活用計画」は、下岡田官衙遺跡の「本質的価値」をあらためてつぎのように整理しています。
①山陽道駅路に沿った陸海交通の要衝に立地する安芸駅家の可能性が高い官衛遺跡であること。
②遺跡の変遷が明らかになるなど、山陽道沿線における官衛の展開を知る上でも重要な遺跡であること。
③山陽道の交通史研究における学史的な意義も大きいこと(46頁)。
一つずつ、みていきたいと思います。
1-1 山陽道と安芸駅家
「本質的価値」の第1は「山陽道駅路に沿った陸海交通の要衝に立地する安芸駅家の可能性が高い官衛遺跡であること」です。
◆律令国家
下岡田官衙遺跡は、7世紀後半に成立し、9世紀前半には廃絶したと考えられています。そのほとんどが奈良時代(710~794)であり、律令国家の形成と密接な繋がりがあります。
中大兄皇子や中臣鎌足たちは、中国で政治や文化を学んで帰国した留学生とともに、645(大化1)年に蘇我氏をたおし、天皇を中心とする中央集権国家――律令国家への道を歩み始めます。
二官八省*2)を中心とする中央官制、国郡里制(こくぐんりせい)による地方行政組織がつくられました。
*2)神祇官・太政官の二官と、中務(なかつかさ)・式部・治部・民部・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵・宮内の八省をさす。
◆最も重要な山陽道
律令制に基づく地方支配のために道路=「駅路」が整備されました。
東海道・東山道(とうさんどう)・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道(さいかいどう)の7つの幹線道路、七道駅路(しちどう・えきろ)です。
これら古代道路の特徴はまっすぐで幅が広いことです。
場所によっては10キロメートル以上にわたってまっすぐであることが確認されています。幅は12メートルもありました。現在の高速道路4車線分の幅があります。
東山道武蔵路:1989年に埼玉県所沢市の東の上遺跡で発見された古代道路の跡
「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」*3)という自然発生的な道ではなく、「中央政府」が設計し、その指揮のもとに造られたのです。
この7つの道は、大路(だいろ)・中路(ちゅうろ)・小路(しょうろ)との3段階に格付けされています。
都(奈良、京都)と北九州という古代日本の2つの先進地域を結ぶ山陽道*4)は唯一の「大路(だいろ)」*5)で、もっとも重要な道でした*6)。
*3)魯迅「故郷」。
*4)都から山背(山城)・摂津・播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・豊前・筑前などの諸国を経由して大宰府にいたる。
*5)中路は東国や陸奥を結ぶ東海・東山道、小路は北陸・山陰・南海・西海道。
*6)高橋美久二(よしくに)「山陽道」『古代を考える 古代道路』192頁。江戸時代の西国街道は五街道につぐ脇街道という位置づけだった。
◆駅路・駅制――古代道路の役割
「中央政府」は何のために、このような道路を整備したのでしょうか。
第一の役割は、都から地方へ、地方から都へ、急を要する命令や報告を伝達することです。
この情報通信制度を、駅制と呼びました。電話やインターネットの発達した現代社会において道路に情報通信の役割は、ほとんどありませんが、昔は情報も人が移動して伝える以外にありません。
そのために、30里(約16km)*7)ごとに駅家(うまや)を設置して、駅馬(えきば・はゆま)を常備するようにしました*8)。使者は馬を乗り換えながら都から地方へ、地方から都へと情報を伝えたわけです。
駅制の第二の役割は納税です。
米,塩、絹、糸、綿(わた)、布などを庸や調として納めるのですが、公民みずからが、役人(国司)に引率されて都まで運ぶのです。駅路は庶民が現物をもって納税するための道でもありました。財貨を運送する安定した交通システムが律令国家には必要だったわけです*9)。
第三に、駅路は単なる交通路以上の意味があります。それは天皇や政府の権威を内外に示すことであり、日本版の「中華思想」の具体化です。
中華思想は自国が世界の中心だとするものですが、日本もまた、世界の中心に――いわば「一等国」*10)に――なろうとしたわけです。
その際にもっとも重視されたのが山陽道でした。なぜなら、外国の使者(蕃客、ばんかく)が山陽道を通って都を訪れることを想定していたからです。「中華」、当時の「一等国」になるために山陽道駅路――計画道路と駅家――を立派なものにすることが律令国家としての重要な政策だったわけです*11)。
また、「駅路は人民に国家の偉大さを見せつける装置の役割も果たしていた」と言われています*12)。
この3点以外にも、条里制による土地区画整備の基準線としての役割があったとする説などがあります。
以上が、これまでの研究で明らかになっていることですが、古代道路について、まだまだ多くの謎があります。
『日本の古代道路を探す』の著者である中村太一氏は、「日本古代国家がなぜ、どのように計画道路をつくりあげたのか」について、まだよく分かっていないとし、「全国のメインルートがなぜ七本と決められたのか? 各地域における具体的なルートがどのようにして決定されたのか? いずれも末解明のままである。また、道路を計画したのは倭王権や律令国家だが、実際に建設に従事したのは、各地の民衆とそのリーダーたちであると考えられる。彼らはなぜ、ヤマトを中心とし、自らを『地方』と位置づける計画道路を受け入れたのか? なぜその建設に参加したのか? こういった問いは、ひとり道路研究のためだけのものではない。地方を生み出すことによって中央政権が成立し、やがて国家へと向かう、その過程に道路建設も位置すると考えられるからである。国家の成立は古代史研究の重要なテーマであり、道路研究は、その素材の一つを提供できる可能性を持っている」と述べています*13)。
また、これほどまでに立派な道路がなぜ廃絶されたのか、なくなったのかという点についてもまだよく分かっていません。
*7)山陽道の駅家の間隔はもっと短かった。
*8)大路20匹、中路10匹、小路5匹。
*9)それまで強かった、共同体(在地社会)による交通妨害――通せんぼし、通行人を殺したり、「祭」という名目で財貨を求めること――を止めさせて、共同体の閉鎖性を打ち破り、「国家領域の隅々と中央との間を安定して交通することができる体制を構築」が求められていた(中村太一『日本古代国家と計画道路』42頁)。また、軍用道路という説については現在のところ賛否両論がある。
*10)日清戦争に勝利した日本は、台湾を割譲され、初の植民地統治を始める。英のインド統治やフランスのアルジェリア統治にならい、植民地をもつことで“一等国”をめざした。
*11)中村太一『日本古代国家と計画道路』46頁。中村氏は「計画道路単体を模倣したのではなく、中国の国家構造を模倣する一環として計画道路を模倣したと考えられよう」と同書47頁で述べている。
*12)武部健一『道路の日本史』48頁。
*13)中村太一『日本の古代道路を探す』229-230頁。
◆山陽道の駅家
つぎの駅家ですが、駅家とは駅路を通る使者たちに、馬の乗り換えや休憩、宿泊などを提供する施設で、下岡田官衙遺跡は、「安芸の駅家の可能性が高い」とされています。
駅家は全国に張り巡らされた七道駅路の全てに設置されていました。
奈良の都と九州の大宰府を結ぶ山陽道の「駅家」は他よりも立派なものでした。瓦葺粉壁(がしゅう・ふんぺき)――瓦葺きで白壁――だったと言われています*14)。当時、瓦は大変貴重で、地方では官衙であっても瓦が使われたケースはまれでした。
小犬丸遺跡から朱がついた瓦が出土していることから駅家の柱が朱塗りであったことも判明しています。朱塗りの柱に白壁、屋根は瓦葺き(瓦屋赭堊〈かわらやしゃあく〉)という豪華で派手な、京都の平安神宮*15)のような建物でした。それは、山陽道を通る「蕃客(ばんかく)」――渡来している外国人をもてなすことを想定して造られたからです。
駅家は、全国で400以上、山陽道は当初68、のち58カ所*16)に設置されていました。しかし、その発掘例は極めて少ないのです。現在まで、駅家の全容がほぼ判明し、駅家であることが確定しているのは、兵庫県たつの市の小犬丸(こいぬまる)遺跡と、同じく兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)の落地(おろち)遺跡の2つしかありません。
小犬丸遺跡は採集された古瓦(こが・ふるかわら)や、地名などから、『延喜式』にみえる「布勢駅」(ふせのうまや)と考えられていました。
1982年から94年まで発掘調査が行われ、、この布勢駅推定地から東へ200m離れた地点を発掘した結果、「駅」「布勢」と書かれた墨書土器や木簡が出土し、小犬丸遺跡が布勢駅であることがほぼ確実となりました。
落地(おろち)遺跡は、2002年から2005年にかけて発掘調査し、遺構の残り具合がよかったため、短期間で野麿駅家(やまのうまや)であることが確定しました。2006年7月28日、国史跡に指定されています。
「駅家跡ではないか」という遺構は全国にかなりあるのですが、この2つのように駅家の全容が判明したものは、今のところありません。
そして、「駅家である可能性が高い」とされているのが、岡山県矢掛町(やかげちょう)の毎度(まいど)遺跡と、福岡県宗像市の武丸大上げ(たけまるおおあげ)遺跡と、当町の下岡田官衙遺跡です*17)。
駅家の遺構というのは大変珍しいのです。
*14)中村前掲書28頁。
*15)1895年、平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、実物の8分の5の規模で復元されたもの。社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけにしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。(ウィキペディア)
*16)平安時代中期に編纂された「延喜式」では、駅家の数を58としている。高橋美久二『古代交通の考古地理』45頁。
*17)木本雅康『遺跡からみた古代の駅家』
1-2 律令国家と地方政治
◆官衙とは
「本質的価値」の第2は、「山陽道沿線における官衛の展開を知る上でも重要な遺跡であること」です。
律令国家は、全国を60あまりの「国」に分け、その下に「郡」、さらにその下に「里」を置きました*18)。中央集権国家における地方政治の始まりです。「国」には中央から貴族を「国司」として送り、郡は地方の有力な豪族を「郡司」に任命し、「里」は地元の有力者をえらんで「里長」としました。
地方の役所を「官衙」(かんが)といい、「国」は国衙(こくが〈「国府」とも〉)、「郡」は郡衙(ぐんが、〈「郡家・ぐうけ」とも〉)と呼びます。
駅家も官衙の一つです。本史跡が国衙なのか、郡衙なのか、駅家なのか、調査の結果としては、駅家である可能性が一番高いけれども、決め手に欠けています。
しかし、そうであっても、本史跡が「遺跡の成立から廃絶までの変遷をたどることができ、山陽道沿線における官衛の展開を知る上で重要である」と『保存活用計画』(46頁)は述べています。
現在までの調査研究によって次のことが分かっています。
①官衙ができる前、7世紀後半に「漆製品の製作に係る施設の存在が考えられる」こと、
②8世紀前半になると遺物の出土量が増加し、円面硯(えんめんけん)*19)――丸い面をした硯です――、模様の施された暗文土師器(あんもんはじき)*20)、丸く巻き込む土師器や面取りした脚柱部のある高杯(たかつき)など、遺跡の性格を考える上で注目される遺物が出土していること、
③その後大規模な地形改変を経て、8世紀中頃には互いの北辺が同一線上のL字状に計画的に配置された2棟の瓦葺(がしゅう)礎石建物が造営されており、史跡の最盛期となっていること、
④ 9世紀に入ると出土遺物は激減するとともに遺跡内での活動も低調となり官衛的な有り様が薄れていったこと。
このように本史跡は、官衙ができる前の姿から、官衙の始まり、発展、衰退、消滅の過程をたどることができます。
*18)里は、住民50戸が1里で、2~20里で1郡。
*19)円面硯は古代の硯の一種で、上部の平坦面が硯面、その周囲に堤が巡らされている。脚部には斜格子と縦線を 組み合わせた文様が描かれている。奈良時代には律令制が確立され、文字の使用が急速に進んだ。硯と墨は必要不可欠な道具であった。主に役所や寺で使用された。
*20)土師器の表面や内面を道具を使って磨き、この際に施される文様が「暗文」と呼ばれる。
1-3 山陽道の交通史
「本質的価値」の第3は、「山陽道の交通史研究における学史的な意義も大きいことです。
山陽道について、まだまだ分かっていないことがあるわけです。府中町を通る古代山陽道も位置は推定はされていますが、幅12メートルとされる駅路の遺構は見つかっていません。『保存活用計画』は、「山陽道の駅家をはじめとした古代律令国家の交通制度及び地方官衛にかかわる諸研究において重要な存在である」(46頁)と述べています
2.下岡田官衙遺跡の「可能性」
つぎに、2020年に教育委員会がまとめた『下岡田官衙遺跡発掘調査報告書Ⅰ』から分かる下岡田官衙遺跡の「可能性」についてですが、出土した木簡、土器、瓦から「分かること」と課題を明らかにしています。
2-1 木簡
◆遺跡から出土した木簡と文書函蓋 148頁~
まず木簡です。本史跡から4点の木簡とそれに準ずる木製品1点が出土されていますが、『報告書』は「本遺跡が、国家的交通と物流の一翼をになう施設であった可能性がたかい」としつつ、「国衙・郡衙などのように文字使用をともなった行政機能が展開するというよりも、交通運輸機能の現業的側面を担う役割が主であったと考えられる」としています。木簡の出土が極めて少なく、食器などの土器を硯として使った「転用硯*21)については皆無」(150頁)だからです。
課題としては「第1号木簡については」「釈読(――解読のことですが――)そのものの進展がのぞまれるところであり、その意味では、参照した赤外写真等もすでに30年以上前のものであり、より解析能力のたかまった機器による調査がのぞまれる」(156頁)とあります。
これまで赤外線カメラで見てもよくわからなかった文字、像をさらに鮮明化するための「木簡文字画像鮮明化システム」や
杯蓋硯(手前)と圏足硯(奥)
手前左、蓋の裏面には墨の痕跡が残り、硯として使ったことがわかる。蓋の右は杯の身。圏足硯は代表的な定型硯のひとつ。
、「木簡の文字自動認識システム」、「文字画像データベース」などが開発されており、これらを活用すれば、すでに発掘されたものからも、新たな知見が得られる可能性があるわけです。
*21)転用硯について、青木 敬「硯を読む」から以下、引用する。
「現在、われわれが墨をする際に使う硯の多くは、石でできています(石硯・せっけん)。ところが、日本古代の硯の多くは焼き物でした(陶硯・とうけん)。陶硯が主流だったのは、古代東アジアのなかでも日本だけでした。……はじめから専用の硯としてつくられたものを定型硯(ていけいけん)と呼びます。平城宮内でも定型硯が多く出土するのは、朝堂院など限られた空間だけで、使用できる人は限られていたようです。/定型硯以外に、食器などの土器を硯として使った個体が、平城宮や各地の官衙(かんが)などを中心に多数出土します。その多くは、須恵器杯の蓋や身を逆さにして墨をすったものです。硯以外の目的でつくられた土器が硯に転じたと考え、これまで転用硯と呼んできましたが、最近の研究では転用ではなく、はじめから硯として供された場合も多いようなので、杯蓋硯(つきふたけん)と呼ぶのが適当かもしれません」(「なぶんけん(奈良文化財研究所)ブログ」2014年4月1日)。
杯蓋硯(手前)と圏足硯(奥)
手前左、蓋の裏面には墨の痕跡が残り、硯として使ったことがわかる。
蓋の右は杯の身。圏足硯は代表的な定型硯のひとつ。
注21「なぶんけん(奈良文化財研究所)ブログ」より。
2-2 土器
◆出土した土器からみた下岡田遺跡
次に土器です。本史跡から多くの土器類が出土していますが、「今回、詳細な調査・分析を行うことで、出土土器類の様相をかなり明確にすることができた」。7世紀後半~8世紀が遺跡の中心的な時期と見なすことができると述べています。
『報告書』は、出土した土器の検討から次のような結論を引き出しています。
下岡田遺跡は、これまで奈良時代の安芸駅家跡と推定されてきた。今回の土器類の検討からは、駅家跡であるという確証を得るまでには至らなかったが、奈良時代の官衙的様相の強い遺跡であることは改めて確認できた。(165頁)
駅家であるという確証は得られなかったけれども官衙であることは間違いないということです。
また、「7世紀後半~8世紀初頭の段階で漆を用いた作業を行う場所であったことが明らかとなったことは、大きな成果」だとしています。 そのうえで「単に下岡田遺跡が奈良時代の安芸駅家跡だけではなく、古代の安芸郡さらには安芸国の成立時についで考えるうえで重要な遺跡であることを示している」と述べています(同)。
2-3 瓦
◆出土瓦からみた下岡田遺跡
三つ目は瓦です。出土した重圏文(じゅうけんもん)*22)系瓦は、「氏族寺院跡の瓦とは明らかに様相が異なっている」とし、建築遺構や配置状況などから考えると駅館、駅家と考えるのがもっとも妥当だと結論づけています。
以上、出土した木簡、土器、瓦から分かるのは、何らかの官衙であり、そのなかで駅家の可能性がもっとも高いということであり、国の史跡指定でも「安芸の駅家の可能性が高い官衙遺跡」となっているわけです。
下岡田官衙遺跡から出土した重圏文軒丸瓦・重圏文軒平瓦
2-4 下岡田遺跡の歴史的価値
『調査報告書』第7章「総括」は、以上のような研究成果をふまえて「下岡田遺跡の歴史的価値」について次のようにまとめています。
第1に、7世紀後半は、官衙工房的な施設が想定されること。
第2に、8世紀後半に瓦葺きの「瓦葺(がしゅう)礎石建物」を計画的に配置した施設が作られ」たこと。
第3に、古代山陽道の駅路に面し海岸線が間近である立地から、交通に密接に関連する官衙施設と推定されること。
第4に、行政機能が乏しい施設であることが予想され、決定的な証拠はないものの、規模や構造から駅家以外の可能性は極めて低いこと。
第5に、9世紀の遺物がほとんど出土しないことから、この施設は9世紀には利用されなくなり、廃絶したものと推定されること。
今後は、①調査が及んでいない区域の状況を明らかにすること、②調査が行われた区域の正確な位置及び標高データを取得すること、③建物跡の確認あるいは建物の存在の検証、囲繞(いにょう)施設――まわりを取り囲む塀などのことですが――囲繞施設や施設出入口を確認すること、さらに、④検出した遺構と出土遺物の詳細な分析・検討を継続して行うこと、瓦葺礎石建物の前身となる施設を明らかにするとともに、⑤瓦葺礎石建物を中心とする官衙施設の実相に迫ることが重要だとしています(194頁)。
下岡田官衙遺跡は、これまでの発掘調査で様々なことが分かってきましたが、国史跡指定を機に発掘調査と研究がさらに進めば、駅家、官衙、山陽道の実態と性格が明らかになり、日本の古代史、律令制度について新たな知見が得られることになります。
国の史跡の名にふさわしい大変重要な遺跡だといえます。
3.下岡田官衙遺跡の「これから」
『保存活用計画』は「この史跡を確実に保存継承するためには、遺構・遺物を適切に保存管理するとともに、史跡の価値や魅力を伝えるための活用・整備を進めていく必要がある」とし、つぎの5点を課題としています。
①史跡指定地内の民有地は、地権者と協議の上、史跡の確実な保存を図るため公有化する必要がある。
②史跡指定地内では耕作が継続されていて駐車場としても使用されており、適切な保存が図れていない。
③史跡指定地は飛び地となっていて史跡指定地外においても重要遺構が検出されているが、末指定となっていることから本史跡の一体的な遺構の保存がなされていない。
④本史跡の本質的価値解明のため、継続的な発掘調査を行い、本史跡に関連する遺構が発見された場合には史跡の追加指定をする必要がある。また、文献調査等も行い、本史跡の本質的価値や遺構の性格などの更なる解明が必要である。
⑤史跡指定地付近には本史跡の概要を示す説明板を設置しているが、「史跡名勝天然記念物標識等設置基準規則」に基づく標識や境界標の設置が行われておらず、史跡の保存及び周知が不十分である。(58頁)
今後、この5つの課題を解決していくことが求められていますが、『保存活用計画』は、これらの課題を踏まえ、本史跡の望ましい将来像を3点示しています。
①持続可能な保存管理を行うことで本史跡の本質的価値を確実に保存し、永く将来に継承していく。
②本史跡の歴史的価値や学史的価値を鑑み、学校教育・社会教育と連携しながら本史跡について学ぶ機会を提供することで、町民の誇りと愛着を育む。
③山陽道の研究のさきがけとして、本史跡の価値を発信し、地域間交流や地域活性化に寄与する。(63頁)
「持続可能な保存管理」「学ぶ機会の提供」「山陽道の研究のさきがけとして、本史跡の価値を発信」すること。保存、学習と研究、発信を総合的に進めていくことが大切です。
『保存活用計画』は保存管理について、現状を維持するにとどまらず、「史跡の全容解明に努める」とし、次のように述べています。
本質的価値や状況の把握のため、発掘調査や文献調査を積極的に行い、史跡の全容解明に努める。調査の成果によって重要な遺構が検出された場合には追加指定を行い、条件が整い次第公有化を行うなど、史跡指定地内外の一体的な保存を推進していく。
先ほども述べましたように、山陽道や駅家についての実態は解明済みではなく、まだまだ分からないことも多い。下岡田官衙遺跡の調査・研究が進むことは、本遺跡の実態を明らかにするにとどまらず山陽道や駅家について、ひいては律令国家の実態を明らかにすることに繋がります。
そこで伺います。
《史跡指定地の公有化について》
第1に、『保存活用計画』には、「段階的に史跡指定地の公有化」をするとありますが、現在の進捗状況と今後の見通しはどのようになっているでしょうか。
■教育部長 計画初年度の進捗状況についてですが、今年度から公有化に着手するべく、当初予算に関係経費を計上しています。今年度購入対象の土地について、現在は、用地測量と不動産鑑定を終えたところです。
今後は、地権者との交渉に入り、年度末へ向け、土地を購入する運びとなっています。
その他、昨日(2024年12月8日)終了しましたが、「古代ひろしまのお役所しごと」と題し、下岡田官衙遺跡及び同時代の遺跡の展示を、歴史民俗資料館で開催するとともに、継続事業として、「ふるさと再発見講座」、「ふちゅう大好きキッズ育成プロジェクト」において、下岡田関連の内容を取り扱い、普及啓発を進めました。
《史跡の整備》
第2に、史跡の活用、地域住民、学校関係者や観光関係者等と連携して、「史跡の本質的価値や魅力を広く伝え」るためには、『保存活用計画』にあるとおり、大きく言って、本格的整備に着手するまでの暫定的な整備、公有化の進展によって可能になる本格的な整備の二段階になると思います。まずは暫定的な整備を進めていくわけですが、可能な限り史跡だと視覚的に分かるような工夫をしていただきたいと思います
『保存活用計画』にも「建物跡の柱位置を表示する等、建物配置や規模を現地で視覚的に理解できるような環境づくりを検討する」とありますが、現在、考えていることはありますでしょうか。
■教育部長 暫定期間やその後の整備見通しについてですが、公有化した史跡指定地については、先ず、これまで調査されていない箇所の発掘調査を行うことになります。調査完了後は、段階的に暫定的な整備を進める予定です。
現時点で、暫定的整備に関し具体的な立案はありませんが、本史跡の本質的な価値の理解を促進するため、説明板や案内板を仮設するとともに、建物配置や規模を、現地で視覚的に捉えることができるような環境づくりについて、他市町の事例などを参考に、今後調査・研究を進めます。
また、学校教育、社会教育、観光活性化という観点から、いかに活用していくかということについても、現状白紙の状態ですが、いずれにしても、行政のみならず、地域住民、関係団体などとの連携・協働は必要であると考えており、運営体制についても、併せて調査・研究を進めます。
《補助金・支援制度》
第3に、土地の公有化や整備には当然ながらお金がかかります。町の財政支出だけでは限界があり、国からの財政的な支援が必要です。
『保存活用計画』策定にあたっては、文化庁の国宝重要文化財等保存・活用事業費補助金を受けたとありますが、史跡指定後、補助金、活用できる支援制度はどのようなものがあるでしょうか。また、すでに決まっているものがあれば教えて下さい。
■教育部長 国の財政的支援についてですが、本計画の策定については、「史跡等保存活用計画等策定費補助金」として、事業費に対し、補助率2分の1の補助金交付を受けました。
現在進めている、史跡指定地の公有化に係る事業については、「史跡等購入費補助金」として、事業費に対し、補助率5分の4の補助金が交付されます。
なお、当該事業費においては、補助金を充当した残り5分の1部分に対し、「一般補助施設整備等事業」として、充当率90%、交付税措置30%の地方債が充当されますので、実質14.6%の町負担となります。
史跡指定地を発掘調査する事業費については、「埋蔵文化財緊急調査費補助金」として、事業費に対し、補助率2分の1の補助金が交付されます。
今年度公有化する土地について、来年度発掘調査を行う計画としていますが、当該補助金を活用する予定です。
また、史跡等の保存と活用を図ることを目的として、その整備等を行うために必要な経費については、「史跡等総合活用整備事業費補助金」として、事業費に対し、補助率2分の1の補助金が交付されます。先ほど申しました「整備基本計画」の策定や、その後の整備工事に際し、活用できる補助金となります。
今後も、これら補助金や地方債を有効に活用し、本史跡の適切な保存管理、活用、整備を進めてまいります。
《考古学や古代史を専門とする研究職員の採用》
第4に、今、申しましたように下岡田官衙遺跡の調査・研究は全国的な意義を持つものです。また、遺跡の調査・研究はたいへん息の長い仕事です。
『保存活用計画』においても「史跡の適切な保存・活用は一時的な行為ではなく、将来にわたり継続して取り組む必要がある」と述べていますが、そのためには組織として継続的に取り組んでいくことはもちろんのこと、10年、20年といった単位で取り組む職員が必要です。
2022年の6月議会で歴史民俗資料館について質問した際に学芸員の配置について質問しましたが、そのときの答弁は「学芸員の配置については必要であると認識しているが、資格の有無ではなく、埋蔵文化財の調査などに知識及び技能を有する人材の雇用をしていきたいと考えております」というものでした。
下岡田官衙遺跡が国の史跡に指定されたいま、学芸員資格をもち考古学・日本古代史を専攻する常勤職員を採用すべきだと考えますが、教育委員会の見解をお聞かせください。
■教育部長 専門職員の採用についてですが、当該案件については、従前から何度か議会でもご質問、ご要望をいただいています。埋蔵文化財業務に精通した職員が必要という観点から、当該業務に従事した経験がある会計年度任用職員を1名任用していることについては、ご承知のとおりです。
教育委員会としては、検討を重ね、来年度については、新たに学芸員資格を有する学芸員職の会計年度任用職員を任用する方向で、現在町と協議中です。
常勤職ではありませんが、実現すれば、埋蔵文化財業務に加え、より幅広い業務を期待するところです。
2021年に町として、安芸郡においても、初めて国の史跡指定を受け、不明な事務も多いなか、手探りで事業に取り組み始めたところですが、専門的な知識・技能を有する職員が必要であることは、教育委員会としても認識を深めています。
どのような職員による、どのような職種の、どのような組織が府中町に見合った体制であるのか、今後も引き続き検討してまいります。
《2回目》
やはり、国の史跡に指定されるということは、事業を大きく前に進めることになるということがよく分かりました。
これまでも要望してきた学芸員ですが、「新たに学芸員資格を有する学芸員職の会計年度任用職員を任用する方向」だと伺い、一歩前進と思いますが、会計年度任用職員はその名の通り、単年度採用であり、その身分は不安定です。遺跡の発掘調査は先ほども申しましたように息の長い仕事です。単年度採用を繰り返しながら雇用するようなことは避けるべきです。
1964年12月 「第1次発掘調査報告書」は、調査にあたった、小倉豊文*23)氏――被爆手記『絶後の記録』の著者であり、広島大学教授の小倉先生が執筆し、最後に次のように述べています。
「安芸の駅館(うまやたち、エキカン)跡との推定が最も近いのではあるまいか」「本遺跡は……奈良時代ないしは平安初期の建築群遺跡として、平城・平安両京に並ぶ地方官衙としての太宰府・多賀城を除けば、従来類例のない希有の貴重な遺跡」*24)と結論づけています。
今から60年前に、安芸の駅家であることを推定している。
そのうえで小倉先生は、最近における建築ブームは周辺に怒濤のごとく押し寄せており、遺跡に住宅が隙間なく建設されてしまうのは決して遠い将来ではない。全面的発掘調査は火急を要するといわねばならない、と警鐘を鳴らしました。その後、断続的に11次まで調査がなされ、60年経って国史跡指定まで漕ぎ着けたわけですが、全面的発掘調査はいまだなされていません。
それゆえ、依然として「安芸の駅家の可能性が高い」と「可能性」の段階にとどまっている。「下岡田官衙遺跡は安芸駅家である」あるいは、「駅家ではないが、これこれの遺跡である」ということを明らかにすることが必要です。
『調査報告書』第6章6節において西別府元日(もとか)広島大学大学院教授が次のように書いています。
安芸国域における古代山陽道の研究は、古代道路研究が全国的に高揚した20世紀の終盤に大きな停滞期を迎えた。その時期に、中垣内(なかがいち)遺跡*25)や下沖(したおき)2号遺跡*26)が確認されたにもかかわらず、調査も極めて不十分なまま、放置された感がある。
それは、下岡田遺跡が、一部には日本最初の駅家遺跡という評価をあたえられながらも、半世紀以上にわたって文化財保護の対象とされなかったことと表裏一体のことであろう」(184~185頁)。
後から見つかった兵庫県たつの市の小犬丸(こいぬまる)遺跡と、上郡町(かみごおりちょう)の落地(おろち)遺跡の2つが駅家であることが確定し、先を越されてしまいました。小倉先生の危惧はあたり、畑として残っている区域以外は住宅密集地となりました。
困難も多々あると思いますが、発掘調査を含む保存、そして活用が進むことを期待したい。
今回、下岡田官衙遺跡の『調査報告書』と『保存活用計画』を読んでみて、遺跡とともに、この二つの文書も町民の財産だと思いました。
作成された教育委員会、「下岡田官衙遺跡調査指導委員会」「史跡下岡田官衙遺跡保存活用計画検討委員会」、ご協力頂いた研究者の方々に感謝申し上げて私の質問を終わります。
《参考文献》
*下岡田官衙遺跡について
府中町教育委員会「府中町下岡田古代建築群遺跡調査報告」1964年
府中町史編修委員会『安芸府中町史』1979年
河瀬正利「下本谷・下岡田遺跡」『仏教美術 特集 地方官衙の遺跡』124号、毎日新聞社、1979年
府中町教育委員会「国史跡指定記念シンポジウム」配布資料、2022年
府中町教育委員会「歴史フォーラム 史跡下岡田官衙遺跡は『安芸駅家』か」配布資料、2023年
府中町教育委員会『史跡下岡田官衙遺跡保存活用計画』2024年
河瀬正利「「広島県下岡田遺跡の古代建物群をめぐって」『考古論集 潮見浩先生退官記念論文集』潮見浩先生退官記念事業会、1993年
*古代史について
石母田正『日本古代国家論 第一部』岩波書店、1973年
石母田正『日本の古代国家』岩波文庫、2017年
山尾幸久『日本国家の形成』岩波新書、1977年
吉田孝『古代国家の歩み』小学館ライブラリー、1992年
吉田孝『日本の誕生』岩波新書、1997年
坂上康俊『平城京の時代』シリーズ日本古代史④、岩波新書、2011年
*古代道路・山陽道について
坂本太郎『古代の駅と道』著作集・第8巻、吉川弘文堂、1989年
高橋美久二『古代交通の考古地理』大明堂、1995年
木下良編『古代を考える 古代道路』吉川弘文堂、1996年
中村太一『日本古代国家と計画道路』吉川弘文堂、1996年
中村太一『日本の古代道路を探す』平凡社新書、2000年
岸本道昭『山陽道駅家跡』同成社、2006年
木本雅康『遺跡からみた古代の駅家』日本史リブレット69、山川出版社、2008年
田中弘志『律令体制を支えた地方官衙 弥勒寺遺跡群』新泉社、2008年
近江俊秀『道が語る日本古代史』朝日新聞出版、2012年
近江俊秀『古代道路の謎』祥伝社、2013年
武部健一『道路の日本史』中公新書、2015年
舘野和己・出田和久編『日本古代の交通・交流・情報 1 制度と実態』吉川弘文堂、2016年
舘野和己・出田和久編『日本古代の交通・交流・情報 3 遺構と技術』吉川弘文堂、2016年
金田章裕『道と日本史』日経プレミアシリーズ、2024年
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