朝鮮半島はなぜ南北に分断されたのか

本稿のもとになったのは、2018年に行った講義のレジュメです。
この年には、南北首脳会談が3回開かれ、史上初の米朝首脳会談も実現。朝鮮半島の分断と対立が終わるのではないかという期待が広がった年でした。
講義では、こうした動きを理解するため、朝鮮半島が南北に分断されるまでの歴史をたどりました。
本稿は、そのレジュメをもとに内容を補い、あらためて一つの文章としてまとめたものです。
1.日本による植民地支配
朝鮮半島は、なぜ南と北に分断されたのでしょうか。
その出発点には、日本による植民地支配があります。
1875年、日本の軍艦・雲揚号が朝鮮の江華島付近で砲撃戦を起こしました。翌年、日本はこの事件を利用して日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させます。
その後、日本は日清戦争、日露戦争を通じて朝鮮半島への支配を強め、1905年には韓国を保護国とし、外交権を奪いました。そして1910年、韓国を併合します。
日本による植民地支配は、1945年の敗戦まで35年間続きました。
朝鮮の人びとは土地や生活の基盤を奪われ、日本語の使用や「皇民化」を強制されました。戦争が拡大すると、多くの人びとが日本や樺太、満州、中国などへ動員され、炭鉱や鉱山、軍需工場、土木工事の現場で働かされました。
朝鮮の人びとは、日本の支配に抵抗しました。1919年の三・一独立運動をはじめ、国内外で独立運動が続けられます。中国では大韓民国臨時政府がつくられ、満州や中国東北部では抗日武装闘争が行われました。
しかし、日本の敗戦が近づいた時点で、朝鮮には国民全体が合意できる統一的な政府はありませんでした。長期にわたる植民地支配によって、朝鮮の人びとが自ら国家をつくり、政治を行う条件が奪われていたからです。
2.解放と同時に引かれた38度線
「やがて」とは、いつなのか
1943年、米国、英国、中国はカイロ宣言で、朝鮮について次のように表明しました。
「前記の三大国〔米中英〕は、朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものにする決意を有する」。
注目したいのは、「やがて“in due course”」という言葉です。「しかるべき時期に」や「適当な時期」とも訳されますが、「やがて」とはいつなのか。
1か月後でしょうか?半年後でしょうか、1年後でしょうか?。
この言葉の意味を示す文書があります。
ルーズベルト米大統領は1945年2月、ヤルタ会談でスターリンに、朝鮮を米国、ソ連、中国による信託統治下に置く考えを伝えています。
その期間として、20年から30年を想定していました。
同年5月には、スターリンも米・英・中・ソの4か国による信託統治に同意。
米国務省の政策文書にも、カイロ宣言の「やがて独立する」という約束を、信託統治によって実行すると書かれています。
つまり、「やがて」には、日本の植民地支配が終わっても、20年から30年もの間、連合国の管理下に置くという含意があったのです。
朝鮮の独立は、朝鮮人自身が決めるものではなく、連合国が時期と方法を決めて与えるものとされていました。
なぜ北緯38度線なのか
1945年8月、ソ連が日本に宣戦を布告し、朝鮮半島北部へ進撃しました。
日本の降伏が目前となった米国時間の1945年8月10日夜から11日未明、米国では、日本軍の降伏を米ソ両軍がどこで分担して受け入れるのかが、あわただしく検討されていました。
なぜ北緯38度線だったのでしょうか。

後に米国務長官となったディーン・ラスクは、自伝で次のように振り返っています。
ボーンスティールと私は夜遅くに隣の部屋にこもり、朝鮮半島の地図と取り組んだ。
緊急で、そして重圧がのしかかる大変な任務だった。アメリカが占領する範囲を決めなければならない。ティックも私も朝鮮半島の専門家ではなかったが、首都ソウルはアメリカ側に入れるべきだと感じた。
軍が広い範囲の占領に反対していることも知っていた。そこで、ナショナル・ジオグラフィックの地図を引っ張り出し、ソウルのすぐ北に適当な境界線はないかと探してみた。
しかし、適当な地理的境界は見つからない。
代わりに目に入ったのが、緯度38度の直線だった。上司に提案してみると、すんなり通ってしまった。ソ連も同意したのには驚いた。
(後に国務長官となったディーン・ラスクの自伝『As I Saw It』1991年、ナショナルジオグラフィックHP、「朝鮮半島を分断する38度線の秘話」2013.08.06)
首都ソウルを米国側へ入れたい。しかし、米軍には朝鮮半島の北方まで進駐する余力がない。
その二つの条件を満たす線として、地図上で目に入ったのが北緯38度線だったのです。
3.朝鮮人自身による建国の動き
日本が降伏すると、朝鮮各地で人びとが動き始めました。
1945年8月、独立運動家の呂運亨(ヨ・ウニョン)らは朝鮮建国準備委員会を結成します。各地にも人民委員会がつくられ、治安の維持、食料の確保、行政機能の引き継ぎなどに取り組みました。
9月には、朝鮮人民共和国の成立が宣言されます。
これは、今日の朝鮮民主主義人民共和国とは別のものです。日本の植民地支配が終わった後、朝鮮人自身の手で統一国家をつくろうとする動きでした。
しかし、南へ進駐した米軍は、朝鮮人民共和国を政府として認めませんでした。米軍は軍政を敷き、旧植民地統治機構の一部や、それに関わった官僚、警察官などを利用して南部を統治します。
一方、北部を占領したソ連軍は、各地の人民委員会を再編しながら、ソ連に協力的な勢力を中心とする政治体制をつくっていきました。
金日成とは何者か
そこで指導者として押し出されたのが、金日成です。
金日成は1912年生まれ。本名は金成柱(キム・ソンジュ)です。少年時代に一家で満州へ移り、中国人や朝鮮人のなかで育ちました。
1930年代、中国共産党が指導する東北抗日聯軍に加わり、日本軍や満州国軍を相手にゲリラ戦を行います。数百人規模の部隊を率いた若い指揮官の一人でした。
1937年には、部隊を率いて朝鮮北部の普天堡を襲撃しました。軍事的には小規模な戦闘でしたが、朝鮮国内へ攻め込んだことが大きく報道され、若いゲリラ指揮官・金日成の名は広く知られるようになります。
ところが、この名前には、彼一人の経歴には収まらない、もう一つの物語が重なっていました。
1907年、日本の圧力によって大韓帝国軍は解散させられました。軍人や独立運動家のなかには満州やシベリアへ移り、日本軍との戦いを続ける人たちがいました。
そのなかから、日本軍を相手に勇敢に戦う「金日成将軍」の物語が、朝鮮の人びとのあいだに広がっていきます。
金日成という名を使った抗日闘士は複数いました。
実在した何人かの闘士の活動と、人びとの願望とが重なり、白馬にまたがって日本軍を打ち破る、伝説的な「金日成将軍」の像がつくられていったのです。
金成柱も、満州での抗日闘争のなかで金日成と名乗るようになりました。
ところが1940年末、金日成の部隊は日本軍の激しい討伐を受け、ソ連領へ逃れます。その後、金日成はソ連赤軍の第88特別狙撃旅団に所属し、大尉となりました。
北朝鮮の公式の歴史書は、金日成が満州に踏みとどまって日本軍と「十万回の戦闘」を行い、1945年8月9日には最終攻撃を命じ、関東軍を撃破して祖国を解放したとしています。
実際には、日本の敗戦時、金日成はソ連領内にいました。朝鮮解放の戦闘を指揮したのでも、解放軍を率いて凱旋したのでもありません。
金日成が朝鮮へ戻ったのは、日本の降伏後の1945年9月です。ソ連船プガチョフ号に乗り、仲間とともに元山港へ上陸しました。
そして10月14日、平壌で開かれたソ連軍歓迎大会で、「金日成将軍」として民衆の前に登場します。
伝説の金日成将軍を白髪の老闘士だと思っていた人びとの前に現れたのは、33歳の青年でした。
萩原燎氏は、当時の目撃証言を次のように紹介しています。
金日成将軍の登場となった。つぎの瞬間、みなはあぜんとした。白髪の抗日の老闘士を想像していた人たちの目にうつったものは、似ても似つかぬ若造であった。
金日成の演説が始まると、群衆のなかから「偽者だ」「ロスケの手先だ」「あれが金日成将軍のはずがない」という声が上がったといいます。金日成があまりにも若く、朝鮮語もたどたどしかったからです。
(萩原遼『朝鮮戦争』文春文庫)
ソ連軍は、なぜ金日成を選んだのでしょうか。
北部には、曺晩植(チョ・マンシク)をはじめ、金日成より年長で、国内に政治的な基盤をもつ指導者がいました。国外にも、中国で活動してきた朝鮮人共産主義者や独立運動家がいました。
それに比べれば、金日成は33歳の若い軍人にすぎません。
しかし、満州で抗日闘争を経験し、その後ソ連赤軍に所属した金日成は、ソ連にとって経歴が分かり、信頼できる人物でした。「金日成」という名前には、抗日の英雄としての名声もありました。
ソ連軍は、実在した若いゲリラ指揮官・金日成を、朝鮮の人びとのあいだに広がっていた「金日成将軍」の伝説と重ね、北部の指導者として売り出したのです。
ソ連軍の宣伝担当者グリゴリー・メクレルは後年、金日成を指導者として育てるため、演説や集会、地方視察まで全面的に手助けしたと、さまざまなインタビューで証言しています。
ロシア紙『論拠と事実(Аргументы и факты)』(2002年12月5日)では、金日成と北朝鮮各地を回ったこと、演説の準備を手伝ったこと、金日成が政治上の決定をソ連側と相談していたことなどを具体的に語っています。
『モスクワ・タイムズ』(2004年7月22日)では、「金日成との仕事は全面的なものだった」「朝から晩まで私と行動をともにしていた」と語り、故郷・万景台への訪問、各地の集会などを組織した経緯を説明しています。
日本では、NHKスペシャル『ドキュメント北朝鮮 第1集 個人崇拝への道』(2006年4月2日放送)が、メクレルの映像証言を紹介しています。番組では、「私は金日成とあらゆる分野、あらゆる問題で行動を共にしました。私はあらゆる場面で金日成を助け、金日成を育て上げたのです」と発言したようです。
NHKオンデマンドで捜しましたが、現在は観ることができないようです。20年前の番組ですから仕方がないのかもしれませんが、残念です。
「政治的演出」は評価を含むので、ここでは事実だけを示すために外しました。故郷訪問や集会の具体的な内容を読めば、読者はそれが金日成を指導者として売り出すための演出だったと十分に判断できます。
もっとも、金日成がいつまでもソ連の意のままに動いたわけではありません。
その後、国内派、延安派、ソ連派などの競争相手を次々と排除し、自らの権力を確立していきます。
しかし、1945年の出発点で、ソ連占領軍の後押しが決定的だったことは間違いありません。
北では、土地改革や主要産業の国有化が進められます。南では、李承晩(イ・スンマン)をはじめとする反共勢力が政治的な影響力を強めました。
米ソの占領地域で、それぞれ異なる政治体制が形づくられ始めたのです。
4.統一政府をつくる試み
1945年12月、米国、英国、ソ連の外相がモスクワに集まり、朝鮮問題について協議しました。
ここでは、朝鮮に臨時民主政府をつくること、その準備のために米ソ共同委員会を設けること、さらに一定期間、信託統治を行うことが決められました。
信託統治とは、独立するまでの間、国際的な管理のもとに置くというものです。
朝鮮の人びとは、日本の植民地支配からようやく解放されたばかりです。それなのに、すぐには独立させず、外国の管理下に置くという。激しい反発が起こったのは当然でした。
とりわけ南では、李承晩や金九(キム・グ)らを中心に、信託統治反対運動が広がりました。一方、共産党など左派勢力は、当初は反対していましたが、モスクワ協定の内容が明らかになると、臨時政府の樹立を優先して協定支持へ転じます。
信託統治をめぐる対立は、単なる外交問題ではなく、朝鮮内部の右派と左派の激しい政治対立へ発展しました。
米ソ共同委員会も行き詰まります。
臨時政府づくりの協議に、どの政党や社会団体を参加させるのか。信託統治に反対する団体を協議の対象に含めるのか。米国とソ連の意見は一致しませんでした。
その背後では、米ソの対立、すなわち冷戦が始まっていました。
米国は朝鮮半島全体がソ連の影響下に入ることを警戒し、ソ連もまた、米国に近い政権が自国と国境を接することを望みませんでした。
統一政府をつくるための協議は、1947年に事実上決裂します。
5.南だけの選挙
米ソ交渉が行き詰まると、米国は朝鮮問題を国際連合へ持ち込みました。
国連総会は1947年11月、国連の監視のもとで朝鮮全土の選挙を行い、統一政府をつくる方針を決めます。
しかし、ソ連は国連朝鮮臨時委員団が北部へ入ることを認めませんでした。
その結果、選挙は国連委員団が活動できる地域、事実上、南部だけで実施されることになります。
これに対し、金九や金奎植(キム・ギュシク)らは、南だけで選挙を行えば分断が固定されると反対しました。二人は1948年4月、平壌を訪れ、金日成らと南北協商を行います。
しかし、統一政府の樹立につながる合意は得られませんでした。
南部では、単独選挙に反対する運動が広がりました。済州島では武装蜂起と激しい弾圧が起こり、多くの住民が犠牲になります。
こうしたなかで1948年5月10日、南部だけの総選挙が実施されました。
6.二つの国家の成立
選挙によって選ばれた国会は憲法を制定し、1948年8月15日、大韓民国の成立が宣言されました。初代大統領には李承晩が就任します。
これに対抗して北部でも国家をつくる動きが進み、同年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。首相には金日成が就任します。
こうして朝鮮半島に二つの国家が生まれました。
ただし、当時の南北両政府は、それぞれが朝鮮半島全体を代表する唯一の正統政府だと主張していました。
南も北も、分断を最終的なものとして受け入れていたわけではありません。自らの体制によって朝鮮半島を統一しようと考えていたのです。
日本軍の降伏を受け入れるために引かれた38度線は、米ソの対立と朝鮮内部の政治対立を通じて、二つの国家を隔てる境界線になりました。
7.なぜ分断されたのか
朝鮮半島は、ある日突然、南北二つの国に分かれたのではありません。
1945年8月に引かれた38度線は、もともと日本軍の降伏を米ソ両軍が受け入れるための境界線でした。
この時点では、朝鮮半島を二つの国家に分割する国境ではありません。
しかし、北にはソ連軍、南には米軍が進駐し、それぞれの占領地域で別々の統治が始まります。
人や物資の往来も次第に制限され、暫定的な軍事境界線が、政治と経済を分ける線へと変わっていきました。
1945年12月のモスクワ外相会議では、朝鮮に統一された臨時政府をつくること、その準備のために米ソ共同委員会を設置することが合意されます。
米ソ両国とも、まだこの段階では統一政府をつくるという建前を捨てていませんでした。
ところが、どの政党や社会団体を臨時政府づくりの協議に参加させるのかをめぐって、米ソは対立します。
ソ連は信託統治に反対した勢力を協議から排除しようとし、米国はそれに反対しました。
その背後には、朝鮮半島にどのような政府をつくるのかという、より根本的な対立があったのです。
ソ連は、自国と国境を接する朝鮮北部に親ソ的な政権をつくろうとしました。
米国も、南部に共産主義政権ができることを警戒し、自国に協力的な勢力を支援しました。
北では、ソ連軍の支援を受けた金日成が、土地改革や産業の国有化を進めながら、権力を集中させていきます。
南では、米軍政のもとで左翼勢力が排除され、李承晩を中心とする反共勢力が力を強めました。
朝鮮人自身の政治的対立もありました。
左右の勢力を結びつけ、南北統一政府をつくろうとする運動が続けられる一方、李承晩は南だけでも政府を樹立することを主張しました。
金日成もまた、北に独自の国家体制を築いていきました。
米ソ共同委員会は1946年に行き詰まり、翌年に再開されたものの、再び決裂します。米国は朝鮮問題を国際連合へ持ち込みました。
国連は南北を通じた総選挙の実施を決めましたが、ソ連は国連朝鮮臨時委員会が北部に入ることを認めませんでした。そのため、選挙は南部だけで行われ、1948年8月に大韓民国が成立します。翌9月には、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。
日本軍の降伏を受け入れるために引かれた38度線は、こうして二つの国家を隔てる境界線になったのです。
朝鮮半島の分断には、いくつもの要因が重なっています。
日本の植民地支配、米ソによる分割占領、冷戦、朝鮮内部の政治対立――これらが絡み合い、38度線を二つの国家の境界へ変えたのです。
38度線を引いたのは米国であり、それを受け入れたのはソ連です。南北に別々の政府をつくり、対立を深めた米ソと朝鮮人政治家にも、それぞれの責任があります。
しかし、先ほども述べたように、その38度線は日本軍の降伏に伴って引かれたものでした。
日本は朝鮮の主権を奪い、独立運動を弾圧し、朝鮮人が自ら国を治める政治的基盤を破壊しました。そして侵略戦争の果てに敗北し、朝鮮人に主権を返すのではなく、米ソ両軍が進駐する状況を残しました。
分断を生み出した歴史の起点に、日本の植民地支配があったことを忘れてはなりません。












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