寛(ひろ)い心で
あまりの字の汚さに嫌気がさして、3年ほど前から習字をしています。日々の練習を怠っているためなかなか上達しない。
私が参加している「清麗会」(夜陣清麗先生)は2年に一度、書展を開いています。今年は3月27日から29日までの3日間、広島市まちづくり市民交流プラザで開催されました。各自感想を、という求めに応じて書いた拙文を以下に掲載します。
次こそ納得のいく作品を
二度目の書展です。前回は「愚直」と書きました。今回は「兵戈無用(ひょうがむよう)」です。
『仏説無量寿経』というお経に出てくる言葉で、武力も武器も用いる必要がないという意味です。
「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病なども起こらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる」
仏教のことはよく分からないのですが、「仏の教え」とはウソや偽りのない、事実と道理を踏まえた真理のことだと解しています。
さて、ここからは言い訳です。年末年始、実家でじっくり練習して納得のいく作品をつくろうと意気込んでいました。しかし昨年のケガの手当をいい加減にしていたために、足にばい菌が入って、潜伏期間の後、1月4日に蜂窩織炎(ほうかしきえん)が発症。3週間の入院を余儀なくされました。3日までに書いたものを提出しましたが、悔いが残ります。特に「戈」の字にメリハリがない。
新型コロナウイルスの感染拡大にともない会場が使用不可になりそうな状況の中、ぎりぎりのところでしたが書展が開けたことはとてもよかったと思います。みなさんの素晴らしい作品を観て、次こそは自分も頑張ろう、満足のいく作品を書こうという思いを強くしました。
尾崎邑鵬先生の「寛則得衆」(寛なれば則ち衆を得)は字の素晴らしさとともに、その意味をかみしめました。この言葉は『論語』のなかで二か所出てきます。
恭・寛・信・敏・恵の五つを行えば仁だといえる。恭なれば(慎み深ければ)侮られない。他人に寛大であれば人びとの心をとらえることができる。信なれば(信用を重んずれば)人びとが仕事を任せてくれる。敏なれば(機敏に働けば)能率があがる。恵(慈しむ心)があれば、人を動かすことができる。(陽貨17)
「堯曰20」では、善政を行った皇帝、王に共通するものとして、同様に、信、敏、恵とともに、「寛則得衆」が挙げられています。皇帝や王になるつもりは毛頭ありませんが、地方政治に携わるものとして、何事も寛い心をもってあたりたいものだと思いました。
尾崎先生の「寛則得衆」を鑑賞する筆者。右は夜陣清麗先生。
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