知の巨人 加藤周一


(イラスト むろぱっち)

戦争の本質を見ぬく

加藤周一さんは1919年生まれ。医学博士で専門は血液学。

アジア・太平洋戦争の渦中、一高在学中に反戦の立場を自覚し、学生新聞に「戦争と文学に関する断想」(1939年)をペンネームで書きます。

「いったんマルクス主義の理論を知って、それを使って日本の戦争をみると、たとえば『満州国』の独立や、日本が『北支事変』『上海事変』へと進んでいく原因が分かるわけです。戦争は帝国主義国家間で資源と市場を争っているものであって、帝国主義による侵略戦争なんだということがわかる。そういう簡単で明瞭な説明で、一度現実を整理すると『八紘をもって一宇となす』とか天皇の御威光を支那に及ぼす』とか、不明瞭で神懸かった、わけの分からない戦争の説明を受け入れられなくなったのです。『資本主義の最高の段階としての帝国主義』の方が、『聖戦』よりも、はるかに説得力があった。どうして日本が戦争をしているのかが分かったから、戦争支持はできない。もう少し複雑な戦争原因の解明は戦後になってからです」(『「戦争と知識人」を読む』青木書店)。

原爆投下1か月後にヒロシマへ

加藤さんは1945年の9月、日米合同の医学調査団の一員として広島に来ます。

「私自身は、当時広島にかかわったんですが、それも医者としてかかわったんですが、もちろんできるかぎりの治療はしました。しかし私の属していた団体の主要な任務は科学的な調査ということだった。その仕事のなかで患者を診るわけでしょう。そのことは治療のほうにも影響してきます。苦しみと闘っている人を眼の前にして、人間としてある種の感動を受けないということはないわけで、しかし科学的な調査をするという目的のためにはあまり感動したりするのは好ましくない。しかも患者はもうあとからあとから送られてくる。これを冷たく観察し、記録し、分析したほうが調査には都合がいいんですね。その人を患者として人間的に扱うと、長い時間がかかります。わたしがここで感じたことは、科学的調査研究というものと、苦しんでいる人に同情するということのあいだの矛盾です。……私は、その後もかなり長く医者をしていましたけれども、この広島体験というのは長らく尾を引いて、私のなかにずっと残った。たぶんいまでも残っていると思います」(「ヒロシマと私」『加藤周一講演集Ⅰ』かもがわ出版)。

広島の惨状をみた加藤さんは核兵器反対の立場を貫いています。

「核兵器に反対するには--私は反対者の一人であるが--、原爆の悲惨さを知るだけでは十分でなく、いかなるものの考え方が核兵器の使用を決定したかを知る必要があるだろう」「原爆の投下はより多くの人命を救うために人命を犠牲にしたのではなかった。ドイツの降伏後ヨーロッパの舞台ではじまっていた「冷戦」の枠組みのなかで、米国の立場を有利にするために、トゥルーマン大統領が行った全く政治的な決定である」(「何故原爆を落としたのか」『夕陽妄語Ⅱ』)。

戦争の原因を深くさぐるために

なぜ戦争をとめることができなかったのか。加藤さんは問い続け、戦争と日本人の思想の関係をさぐるために、「非専門家の専門家」をめざし、研究領域を政治・経済・文化へと広げてゆきます。

「なぜ、日本の国家がやっている戦争が『間違いだからやめろ』と、真っ向からぴしゃりといえなかったのか、その根本的な要因の一つは、知識人が自分の信じている思想と集団の間を揺れ動いていて、自分の信じる思想や価値が集団、すなわち日本に超越しなかったということです。逆に戦争に反対した人は、国家や集団に超越した価値を信じていた。……ここまでが、この「戦争と知識人」でやったことですが、そこから先を、細かく具体的にやろうとすると、日本の歴史全体の検証とならざるをえない。のちに、私が『日本文学史序説』(筑摩書房)を書いた背景というか、動機は、「戦争と知識人」での疑問であって、……「日本での思想と個人の関係、超越的価値がいったいどうなっているか」、これを知りたかったのです」(『「戦争と知識人」を読む』)

九条の会を呼びかける

加藤さんは、2004年6月10日、大江健三郎さんらと「九条の会」を発足。その趣旨を次のように語っています。

「まず第1点は、私たちは憲法一般の問題を議論するのでなくて、日本国憲法の改定、ことに9条の改定にわれわれの関心は集中していて、そのために作った会であり、そのために作ったアピールです。第2点は、9条の問題に関してわれわれは危機感があり、黙って見ていることができないということがあります。そしてわれわれにできることとは何かと言えば、9条を護ろうという人たちの運動がいろいろとあり、小さな会もあれば大きな会もあるのですが、その人たちの横の運動がほとんどないのですね。たとえばどれぐらいの団体があってどれぐらいの人たちが活動をしているのか、推定どれぐらいの数なのかということもわからないのですね。そういう意味で、お互いの横の連絡、ネットワークを作りたい。そのためにできることをしたいというのが趣旨です。

さまざまな運動を統一することをめざしているのでは全くありません。従って全国的な組織を作ろうということなどは全く考えていません。相互連絡の手伝いというか、有効な連絡ができるようにするために、われわれにできることをしたいというのが趣旨です」(「九条の会」発足記者会見、オフィシャルサイトより)

「九条の会」という名前

「九条の会」という名前になぜなったのか。

「『九条の会』という名前を付けたのは私と事務局の小森陽一さんなんですよ。二人で会の名前をどうしようかと話していて、「憲法九条の会」なんだけど、私は『憲法』は付けないほうがいいといった。名称はなるべく短いほうがいいと。「九条の会」といったとき、何の「九条」なのか、憲法九条なのか九つの条文なのか、そんなこともわからないのであればそういう人とは話さなくていいだろうと、(笑い)そういう哲学だったのです」 (『憲法・古典・言葉』かもがわ出版)

なぜ憲法を守りたいのか

加藤さんは憲法の意義を次のように語ります。

「憲法の中心問題は前文と九条です。細かい技術問題は別として、その中心思想は、国際間の紛争を解決するために武力または武力による脅しを用いない、ということです。1930年代の日本はほとんど武力のみによって紛争を解決しようとしていたでしょう。

軍国日本を評価するかしないか、排斥するかどうかという根本問題は、やはり九条の評価にかかわる。紛争があったときに軍事力を用いるか用いないかという問題になる。自衛戦争は例外だとか、そういう議論は枝葉末節。というのは、すべての戦争は「自衛」と言いうるし、現実的には、ある日突然外国が日本に攻め込んでくる可能性はゼロに近いからです。

私は、道義的な意味と日本の近代史の経験から、軍事力を用いないという考えに賛成です、だから私は憲法を守りたいのです。それが第一です。

第二は、日本に限らず、一般的に言って現在の世界の中で紛争を軍事力で解決しようとすると、道義上の問題としてではなく、全く政治技術的に見て、目的を達成することができないからです。現在やたらに起こっている国際問題と紛争を解決するために、軍事力が有効な手段であるかといえば、違うと思います。軍事力がまったく役に立たない問題が、環境問題からエイズまで山ほどある。軍事力に関係ありそうにみえる問題に限っても、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、第一次湾岸戦争など、いままでやった戦争で、目的を達成した例はほとんどないですね。
だから、憲法擁護が理想主義的なのではなくて、もっとも現実的なレアルポリティークの立場、パワーポリティクスの立場から言っても、軍事力の行使は、問題や紛争の解決に有効ではない。犠牲は大きくて、達成した目的は貧しい」(「私はなぜ憲法を守りたいのか」『歴史の分岐点に立って』かもがわ出版)。

九条の果たしてきた役割

「九条は無力だ」という意見を加藤さんは次のように退けます。

「九条はどのように働いてきたのかといえば、日本人は死ななかったし、殺さなかった。参戦しなかった。だから、九条は決して無視され忘れさられ、効果がなかったというわけじゃないのです。大いに効果があった。大いに効果があるから変えたいというのでしょう? 本当に効果がないものだったら、わざわざ努力して変える必要もない」(「歴史に正対しなければ、未来はない」『世界』2005年8月号/前掲『憲法・古典・言葉』所収)。

知性と情熱、詩人の心をもとう

加藤さんは『吉田松陰と現代』(かもがわ出版)で、松陰の魅力は「体現化された政治的情熱」にあると述べています。

「松陰には、思想の内容と、それが信念と化して情熱的に体現化していたという面がある」

「ただ理論をしゃべっているだけじゃない。まして自分の利益のために何かを言っているんじゃない。そうではなくて、いま言った思想、どうしても改革するのはいまだ、われわれがやるほかはないという信念、それは燃えるような信念だったのでしょう。その熱い信念は聞いている人たちによく伝わった。伝わりすぎるぐらい伝わった」「たんに知的な鋭さ、知性だけでは人を動かすことは出来ない。本当に人を動かすには情熱がなければだめです」

憲法を守ろうとする私たちに「人を動かす松陰のような情熱を」と呼びかけているのです。そして、想像力と詩人の心をもとうと。

「(戦争に)反対する力は何かというと、やはり想像力です。何の罪もない子どもをころしたことを想像すると耐えられないというのは心の問題ですね。だから、学者は時々、自分の中に住んでいる詩人の心に直接聞く必要があるんだ。私は若い人たちに、そういうことを望みたいな」(前掲「私はなぜ憲法を守りたいのか」)

言葉の力・文化の力

『言葉と戦車』(筑摩書房)において、1968年に起きた4つの事件(パリの学生運動「5月革命」、チェコのプラハの春、中国の「文化大革命」、アメリカのヴェトナム政策への批判のたかまり)を、「『戦車』または組織された暴力と、『言葉』または人間的なるものとの対立としてとらえます。

「言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体をも破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものをみずから正当化することだけはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。言葉に対する言葉をもってしなければならない。1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭で相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった」

「プラハの自由は、数ヵ月のうちに終わった。……一つの夢は過去ったが、人間は夢なしに生きることができない。必ずや同じ夢は再び青年たちと彼らと共にある人々とを、日常の秩序のなかから、歴史の、あるいは叙事詩の舞台に抽きだすことであろう」(『言葉と戦車』)

プラハの春は戦車によって押しつぶされたけれども、夢がふたたび叙事詩の舞台へと登場すること、「言葉の力」の可能性を信じていました。

2005年の広島での講演では、文化のもつ力について、バラに託して次のように語っています。

「このあいだ、フランス人の写真家が取った写真を京都の展覧会で見た。写真の右側に女学生がおり、左側に兵隊の隊伍があり、銃剣を持ち少女に向かって構えている。少女は一人。彼女は手に赤いバラを持っている。

連邦軍か州兵か分からないが、とにかくアメリカの軍隊だ。しかも何十人もいる。それにバラの花一つで対決する。ある場合には、バラの花ひとつの方が軍隊より強いことがある。影響力からいえば問題にならない。軍隊は一人の女学生を殺すことはできるが、一つのバラが世界に与える影響力を殺すことはできない」(05.11.3広島での講演から)

言葉の持つ力と言葉をもつ人間をどこまでも信じた知の巨人、加藤周一さん。2008年12月5日、多臓器不全で永眠。89歳でした。

(2005年11月3日、加藤さんを講師に招いた「憲法のつどい」のパンフに書いたものに加筆しました。)

(2005年11月2日)

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