ヒロシマを知るために――日本国憲法の原点 ヒロシマ(1)

2009~10年に「学びの草子 憲法篇 いろはにこんぺいとう」という冊子(全7冊)を出しました。そのなかの安保条約に関する4号、5号は圧縮して2010年にかもがわ出版から『ジョーカー安保』として出版。あとはお蔵入りです。

今日は8月6日ですので、第3号「日本国憲法の原点 ヒロシマ」を順次アップいたします。

 


 



原爆被害を知ることの難しさ

第1号「憲法のこころを聴く」でお話ししたように9条を生みだした一つの大きな力は原爆による惨状でした。ここまで戦争が行きつくのなら戦争をやめる以外にない。

そこまで思わせる戦争被害とはいったいどういうものなのでしょうか。

またそういう戦争被害が生みだした「ヒロシマのこころ」、被爆者の願いとはどういうものなのでしょう。重い課題ですが一緒に考えてみましょう。

原爆による惨状を正確に理解することは、それほど簡単ではありません。

広島市長であった浜井信三さん(1)が、1965年に次のように書いています。

広島の原爆については、いろいろな人の手によって、記録が書かれ、詩に歌われ、絵画に描かれ、映画も作られたが、そのいずれもが、わたくしたち、直接原爆を体験したものから見れば、実感にはほど遠いもののようにさえ思われた。それほど、その惨状は、人間の想像力や表現能力を超えた非人間的なものであったということができる。

それにもかかわらず、わたくしたちは、この事実を、できるだけ広く人びとに伝えなければならないと思う。その偽らない事実の中から、人類の将来を予見することができるからである。

(広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書)

2007年に4人の被爆者からお話を聞く機会がありました。歴史学の師匠、中村政則先生の聴き取りに付き添ったのです(2)。これまでも被爆体験を聞き、手記なども読んでいましたので、それなりに理解しているつもりでしたが、まだまだ分かっていないと実感しました。

「人間の想像力や表現能力を超えた非人間的なもの」だということにたじろぎつつ、それでもその惨状を私なりに理解し、伝えたい。

力不足を承知のうえで、ヒロシマの惨状とそこから生まれた「ヒロシマのこころ」を探ってみようと思います。

あの日

1945年8月6日、月曜日。午前1時45分(日本時間)にテニアン島を飛び立ったエノラ・ゲイ号が広島市の北方から侵入。地上約9600mの上空からリトルーボーイという原爆をT字型をした相生橋を目標に投下し、8時15分、島外科(現在の中区大手町1丁目)の上空約600mで爆発したのです。広島の空は快晴でした。

今も同じ場所に島外科はあり、病院前に説明板があります。原爆ドームのすぐ近くですので、広島に来たら訪ねてみてください。空を見上げ、この真上600mの高さで原爆は爆発したのだと想像してほしい。

原爆は熱線と爆風、放射線という三重の被害をもたらしました。

熱線によって爆心では地表面が3000~4000℃になり、1km以内では1800℃以上(3)。1800℃とは、瓦の表面が溶(と)けてぶつぶつができる温度で、鉄は1536℃で溶けます。その熱量がどれほどだったか想像ができますか。

多くの人が火傷(やけど)を負い、亡くなりました。2㎞離れていても衣服や洗濯物に火がつき、3㎞以内でも電柱や樹木、木材が燃え、黒こげになったのです。

木の葉のように焼かれて

市内は高熱火災に見舞われ、爆発から約30分後に「火事嵐」となります。原爆によって被爆者が「蒸発した」と言われたりしますが、そうではないのです。高熱火災によって被爆者は「生きながらに焼かれ、火傷や打撲、重傷、放射線による内臓の荒廃などによる想像を絶する苦痛をなめさせられ、多くは肉親に看取られることなく死んでいった」(4)のです。

名越(なごや)操(みさお)さんは、「木の葉のように焼かれて」と表現しました。

着物は焼きはがれ、丸裸でふくれあがり、名を告げる力もなく、水を乞いながら、海に流れていったのか。からだじゅう、ウジ虫がわいて、どこの誰かもわからずに、焼き捨てられてしまったのだろうか。

名もなく、道もなく、勲章ももらわずに、みんな木の葉のように焼かれて消えて行った。

(名越操「木の葉のように焼かれて」(5)『ヒロシマ、母の記』平和文化、10ページ)

米田進さんは、5歳のとき入院中の舟入病院で被爆。看護婦さんに助けてもらいました。看護婦さんは皮膚がはげ落ち、筋肉が血に染まっていて「赤鬼」のように見えたと米田さんは言います。付き添っていたお母さんと病院裏の天満川に逃げると、運よく避難用の舟に乗ることができました。

燃えさかる両岸の火の下から、助けを求める声がたくさん聞こえたそうです。

川の中洲にたどりつき、そこで仰向けに寝ていた米田さん。両岸から炎が迫り、空が真っ赤だったといいます。天満川はそこそこの川幅があります。この話を聞いたとき、あの時の火災について自分の想像力が追いついていなかったことを実感しました。

8月7日、新見(にいみ)愛枝(いとえ)さんは、白神社(しらかみしゃ)(現在の地名でいえば中区中町。爆心からの距離約500m)のクスノキの根元で髑髏(どくろ)を見ました。「髑髏の中が煮えたぎるおかゆのようだった」と言います。翌日でもそれだけ熱かったのですね。

午前11時から午後3時ごろまで激しく燃えさかり、火災がおおむね収まったのは、投下から3日後のことでした。爆心地から半径2㎞以内の地域はことごとく焼失。倒壊した建物の下敷きになって、生きながら焼かれ、亡くなった人たち。

下敷きになった親、兄弟・姉妹をなんとか助けようと思ったが助け出すことができずに「見殺し」にしてしまった、というつらい思いを抱いたまま生きている被爆者も少なくありません。

爆風による衝撃

爆風というと「風」が吹いたという柔らかな感じを受けますが、実際にはきわめて強い力が一瞬のうちにかかりました。衝撃波といった方がいいでしょう。普通の暴風は秒速10mですが、爆心から300m以内では秒速330mという突風と揺り戻しの強風。爆心から2㎞以内の木造家屋はなぎ倒され、全ての建物が大破しました。

ガラスは細かく砕け、あちこちに突き刺さりました。コンクリートの壁にもめり込むほどの力で突き刺さったのです。「体の右半分に手裏剣(しゅりけん)のように突き刺さったけれども痛みは全く感じなかった」と米田進さんは言います。痛みすら感じることのできない状況にあったということなのでしょうか。

ガラスが体に埋め込まれたままで、ときどき「ガラスが出てきた」という被爆者の話をいまだに聞きます。

「爆心近くにいた人は、衝撃波で目の玉が飛び出して顔の前に垂れ下がったり、内臓が破裂したり、建物や地面にたたきつけられました。多くは失神したうえ、さらに、ぐいと強い圧力で押しつぶされたのです。また、倒壊した建物の下敷きになったり、閉じこめられたりの極限状態」(6)におかれました。

下敷きになったり、閉じこめられた人に高熱火災が襲い、助かったかもしれない人びとを焼き殺しました。


(1)浜井信三(1905-1968年)。1947年4月公選による初代広島市長となり、その年8月6日に第1回平和式典と慰霊祭をおこない平和宣言を発した。1950年平和記念公園を建設、1966年原爆ドームの永久保存運動をおこす。

(2)中村政則『昭和の記憶を掘り起こす 沖縄、満州、ヒロシマ、ナガサキの極限状況』小学館にそのときの聴き取りが収録されています。

(3)沢田昭二『核兵器はいらない!知っておきたい基礎知識』新日本出版社、33ページ。

(4)武田寛『爆央と爆心』学習の友社、20ページ。

(5)新日本婦人の会広島県本部が毎年発行している『木の葉のように焼かれて』はこの名越さんの手記からその名がとられたもの。初出は『木の葉のように…』第1集(1964年)。

(6)『爆央と爆心』14ページ。

1.ヒロシマを知るために

2.たくさんの悲しみを抱えて生きる

3.内部被曝がもたらすもの

4.ヒロシマを伝える作品たち

5.ヒバクシャ 渾身のたたかい

6.ヒロシマのこころを聴く

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