ヒロシマのこころを聴く――日本国憲法の原点 ヒロシマ(6)

原爆は、「人間として死ぬことも、人間らしく生きること」(「原爆被害者の基本要求」)も許さなかったのです。生きながら殺し、生き残った人々もじりじりと死へ追いやって行く。そういう惨状が「ヒロシマのこころ」を生みだしました。

死者と連帯し、ともにたたかうために

毎日、平和公園にはたくさんの修学旅行生が訪れ、平和公園の内外にあるさまざまな碑に折り鶴が絶えることがありません。

なぜ、修学旅行の地として、広島や長崎、沖縄が選ばれるのでしょうか。教育学者の竹内常一さんは、その意味は「死者と連帯することにある」と次のように述べています。

「生きる」ということは、「死者」の願いや恨みを引き受け、死者と連帯して生きるということではないか。広島や長崎や沖縄に修学旅行をおこなうのは、この「死者」たちの願いや恨みを引き受け、「死者」と連帯するためではないのか。それなしには私たちの歴史というものがはじまらないからではないか。
(竹内常一『子どもの自分くずし、その後』太郎次郎社、47-48ページ)

竹内さんは「『死者』と交流し、『死者』と連帯することのない『生者』とは、生きている『死体』ではないだろうか」(同書40ページ)といい、私たちが人間らしく生きるためには、「死者との連帯」が不可欠だと提起しています。

この点について、歴史学者の上原専禄さんの『死者・生者』を参照するように書いてありましたので読んでみました。なかなか難しい本でよく分かったとはいえないのですが、上原さんは、「死者」と「生者」との共存・共生・共闘するという考えは、現実を認識するための方法であるとともに現実を救済する原理でもあるといいます。

アウシュビッツで、アルジェリアで、ソンミで虐殺された人たち、その前に日本人が東京で虐殺した朝鮮人、南京で虐殺した中国人、またアメリカ人が東京大空襲で、広島・長崎で虐殺した日本人、それらはことごとく審判者の席についているのではないのか。そのような死者たちとの、幾層にもいりくんだ構造における共闘なしには、執拗で頑強なこの世の政治悪・社会悪の超克(ちょうこく)はたぶん不可能であるだろう。
(上原専禄『死者・生者』未来社、54ページ)

死んだ人の声を聞くことは、実際にはできません。しかし、その手がかりはあります。『原爆の子』の編者・長田(おさだ)新(あらた)氏は「序」で次のように言います。

永久に生きてかえることのない人々がその最後の訴えを、この生き残った人たちの口を通じて叫んでいるのではないか。生き残った人たちは、今はもう語ることのできない人々に代わって、またその人々と共に、訴えているのではないか。(『原爆の子』上、岩波文庫、17ページ)

生き残った被爆者の証言、手記、遺跡や碑、そして、文化・芸術となったヒロシマから、私たちは「死者の声」を聴きとる必要がある。虚心に死者の声を探し出そうとすること。この作業が「ヒロシマのこころ」を聴くことにほかなりません。

そして、私たちがそういう作業を通じてどれだけ多くの死者と連帯できるかが、生者を死者へと追いやった原因を取りのぞき、いまを生きる世界の人びとと連帯できるかどうかを決めるのです。

ノーモア・ヒロシマズ

さて、いよいよ「ヒロシマの心」とは何かについて考えるときがきました。

日本被団協は被爆40周年を前にした1984年に「原爆被害者の基本要求」をまとめました。そこに「被爆者のねがい」が書かれています。

私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した〝地獄〟の苦しみを、二度とだれにも味わわせたくないからです。

「ふたたび被爆者をつくるな」は、私たち被爆者のいのちをかけた訴えです。それはまた、日本国民と世界の人々のねがいでもあります。

核兵器は絶対に許してはなりません。広島・長崎の犠牲がやむをえないものとされるなら、それは、核戦争を許すことにつながります。

原爆被害者援護法の制定は、国が原爆被害を補償することによって、「核戦争被害を拒否する権利」をうち立てるものです。「ふたたび被爆者をつくらない」誓いを、国として高らかに宣言するものなのです。

被爆40周年を迎えるにあたり、被爆者は心の底から訴えます。

核戦争起こすな、核兵器なくせ!
原爆被害者援護法の制定を今すぐに!

この願いが実ったとき、被爆者は初めて「平和の礎」として生きることができ、死者たちはようやく、安らかに眠ることができるのです。

人類が二度とあの〝あやまちをくり返さない〟ためのとりでをきずくこと。――原爆から生き残った私たちにとってそれは、歴史から与えられた使命だと考えます。この使命を果たすことだけが、被爆者が次代に残すことのできるたった一つの遺産なのです。

(「原爆被害者の基本要求」日本被団協ホームページから)

1985年、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」国際署名が呼びかけられ、約160ヵ国に広がりました。このアピール文にも死者の願い、そして被爆者の願いがこめられていると思います。

ヒロシマ・ナガサキと、第二次世界大戦の終結から40年がたちました。

あの悲劇を二度と許さないという被爆者をはじめ世界諸国民の願いにもかかわらず、はてしない核軍拡競争によって、ヒロシマ・ナガサキで使われた原爆の百万発分以上の核兵器が蓄積されています。

核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。

核兵器の使用は、不法かつ道義にそむくものであり、人類社会に対する犯罪です。

人類と核兵器は絶対に共存できません。

いま世界各地でおこっている核戦争阻止のための有効な諸活動の発展とともに、国際的な共通の課題として、核戦争を廃絶することは、全人類の死活にかかわる最も重要かつ緊急のものとなっています。

広島、長崎の地から、私たちは被爆者とともに、そしてもはや帰らぬ死者たちにかわって訴えます。

第二のヒロシマを、
第二のナガサキを、
地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。

いまこそ私たちは、核兵器全面禁止・廃絶を求めます。すなわち、核兵器の使用、実験、研究、開発、生産、配備、貯蔵のいっさいの禁止をすみやかに実現させましょう。

1985年2月6日広島にて 2月9日長崎にて

 

二度とヒロシマ・ナガサキを繰り返すな。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ。これがヒロシマのこころの原点だと思います。

「やられたらやり返せ」ではなく、「二度と繰り返すな」というメッセージ。

こんな酷い仕打ちを受けるのは私たちだけでたくさんだ。世界中のどこであっても核による被害をだしてはならない。それが「ノーモア」という言葉に込められているのです。

「ノーモア・ヒロシマズ」という言葉は誰が使い始めたのでしょうか。それはUP通信の東京特派員であったルサフォード・ボーツ記者だといわれています。

ボーツ記者は、1948年3月に東京で、世界宗教者平和大会の広島開催を計画していた広島流川教会の谷本清牧師をインタビュー。
「広島の悲劇を世界のどこの国にも再現させたくない」という言葉をノーモア・ヒロシマズと英訳して打電。駐留米軍紙「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」のほか米国内の新聞に掲載された。

その後、米オークランドの教会管理人アルフレッド・パーカー氏が平和運動のスローガンに転用、一気に世界に広まった。ボーツ記者は中国新聞の取材に対し「第一次大戦後欧州で唱えられた『ノーモア・ウォーズ』をもじった」と述べている。

(『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社、12ページ)

谷本清牧師の思いは、被爆者に共通する思いだったと思います。原爆の惨状はあまりに残虐すぎて、誰しもが「二度と使ってほしくない」という思いを抱いたのです。

〈原爆〉のもった最大の意味は、それが原爆否定の思想を生み出したというところに在る。この思想形成の必然は被爆者の〈生〉そのものの中に在る。(石田忠『反原爆-長崎被爆者の生活史』未来社)

原爆を使ったことが、ただちにその否定の思想を生みだすことになった。そして、この否定の道筋を示したのが、憲法第9条でした。

ここまで戦争がゆきついたからには、戦争そのものをなくす以外にない。あらゆる武器をなくせば、当然、核兵器もなくさざるをえないからです。

沖縄のこころ・ヒロシマのこころ・憲法のこころ

今年の8月2日、沖縄の平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館を初めて訪ねることができました。沖縄についても全然分かっていなかったなあと反省しました。
1945年の沖縄戦もまた、戦争の行きついた先であり、地獄でした。

「鉄の暴風」と呼ばれる空襲や艦砲射撃。おびただしい砲弾が撃ち込まれ、20数万人が亡くなりました。米軍によって殺されただけでなく、日本軍によっても沖縄の人びとは殺されます。日本軍は沖縄住民をスパイ視し、拷問や虐殺をしたり、壕から追い出し米軍の標的にしました。さらに米軍に察知されないためにと乳幼児も殺しました。「集団自決」という名の死の強要も行ったのです。

日本軍は、「野蛮な鬼畜米英につかまれば女は強姦され、男は戦車でひき殺される」と恐怖心を住民に植えつけ、捕虜になる前に「自決」するように指導したのです。犠牲者は数千人といわれていますが、正確な数は分かりません。

2007年、文部科学省は教科書からこの事実を消し去ろうとしました。「集団自決」の記述が「沖縄戦の実態について誤解するおそれがある」と日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させたのです。

沖縄の人びとは怒り、9月29日に「教科書検定意見撤回を求める県民大会」を開催し、11万6000人が参加。読谷高校の津嘉山拡大(こうだい)くんと照屋夏美さんは次のように訴えました。

 

この記述をなくそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじいおばあがうそをついているといいたいのだろうか。わたしたちはおじいおばあから戦争の話を聞いたり戦跡を巡ったりして沖縄戦について学んできた。「チビリガマ」にいた人たちや、肉親を失った人たちの証言を否定できるのか。……うそを真実と言わないでほしい。あの醜い戦争を美化しないでほしい。たとえ醜くても真実を知りたい。学びたい。そして伝えたい。

「たとえ醜くても真実を知りたい」。この思いに私たちは応えねばなりません。

本章の最後に、沖縄県平和祈念資料館の「設立理念」を紹介したい。

沖縄のこころとヒロシマのこころはつながっているからです。

1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火が、この島々に襲ってきました。90日に及ぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。

沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされるものもありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。

この戦争の体験こそ、とりもなおさず、戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。

”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争に繋(つな)がる一切の行為を否定し、平和を求め、人間の発露である文化をこよなく愛する心であります。

私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人々に私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。

(沖縄県平和祈念資料館ホームページより)

沖縄の祖国復帰は、日本国憲法のもとに帰ることであり、それは、自由と人権、人間としての尊厳を回復することでした。復帰運動は同時に、憲法9条を支持する憲法運動でもあったのです。そして、沖縄県民は、長いたたかいの末に、日本国憲法を手にしました。

沖縄のこころ、「人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争に繋(つな)がる一切の行為を否定し、平和を求め、人間の発露である文化をこよなく愛する心」は、「ヒロシマのこころ」でもあると思います。

戦争を憎み、人間らしく生きること。恐怖と欠乏から免れ、自由にそして豊かに生きる。沖縄のこころとヒロシマのこころは日本国憲法にまっすぐ結びついています。

(第3章「日本国憲法の原点 ヒロシマ」 おわり)

(沖縄県平和祈念資料館)


【参考文献】

『図録 ヒロシマを世界に』広島平和記念資料館
広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』岩波現代文庫
武田寛『爆央と爆心』学習の友社
沢田昭二ほか『広島・長崎 原爆被害の実相』新日本出版社
沢田昭二『核兵器はいらない! 知っておきたい基礎知識』新日本出版社
肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』ちくま新書
肥田舜太郎『ヒロシマを生きのびて』あけび書房
中国新聞社編『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社
濱谷正晴『原爆体験』岩波書店
『核なき世界をめざして 原爆症の認定をもとめる闘い』原爆訴訟を支援する広島県民会議
『沖縄県平和祈念資料館 総合案内』
『沖縄のうねり』琉球新報社
林博史『沖縄戦 強制された集団自決』吉川弘文館
仲地博・水島朝穂編『オキナワと憲法』法律文化社
若尾典子『ジェンダーの憲法学』家族社


もくじ

1.ヒロシマを知るために

2.たくさんの悲しみを抱えて生きる

3.内部被曝がもたらすもの

4.ヒロシマを伝える作品たち

5.ヒバクシャ 渾身のたたかい

6.ヒロシマのこころを聴く

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