小森香子さんと「青い空は」


小森香子さんの訃報が7月9日付「しんぶん赤旗」に掲載されました。

2005年、以下の文章を広島県労働者学習協議会機関誌「一粒の麦」に書いたところ、畑田重夫さん(国際政治学者)が小森香子さんにコピーを渡して下さったようで、拙文の一部が「うたごえ新聞」(2000号)に紹介されていてビックリ。

その年の11月に広島で「日本のうたごえ祭典」があり、それにちなんだ寄稿だったのでしょう。

「どなたがお書きになったか存じ上げませんが」とありましたが、私です(笑)。

小森さん、ありがとう。

残念ながらその稿が載っていた「うたごえ新聞」は、もう手元にありません。

 


「青い空は」誕生秘話

〔2005年〕10月8日、「第九条の会・はつかいち」結成のつどいに参加した。廿日市市長、市議会議長も参加し、「右から左まで」(市長のあいさつ)のつどい(186人が参加)で「九条の会」らしくてとてもよかった。

記念講演は九条の会事務局長の小森陽一さん。小森さんの話を聞くのは2度目だが、切れ味抜群。会場で近著『青い空は青いままで子どもらに伝えたい』(五月書房)を買い、さっそく読んだ。お母さんの香子さんとの対談である。そう、お母さんは、「青い空は」の作詞者。ちなみにお父さんの良夫さんは世界労連に常駐した経験のある国際労働運動研究者。『「ルールなき資本主義」との闘争』(新日本出版社)などの著書がある。

本書は、親子の人生の歩みを語り合っている異色の同時代史だ。ハイライトの一つは、タイトルにもなっている「青い空は」がどうやってできたのか、その誕生秘話にある。

「子どもたちも一緒に歌えるような、未来への展望があるような、明るい核兵器廃絶の歌があってもいいじゃないか」。そういう声が高まるなかで原水協と日本のうたごえが、新しい歌を1971年全国公募した。

「広島にいったことがないのに書けるだろうか」

そう逡巡する香子さんに詩を書くことを決意させたのは、10年近く前のチェコのリジッツェ村での体験だった。リジッツェという村は、ナチスによって一晩で焼きつくされた村だ。男は全部その場で銃殺。子どもと女は収容所送り。収容所から生きて帰れたのは三人の母親と娘がひとり。プラハに住んでいた(世界労連の本部はプラハ)小森親子はそこを訪ねる。

「バスを降りたときに、黒髪の少年とおかっぱ頭の小さな女の子を連れて降りれば、これはもう東洋人と分かるわけで、ちょうどバラの花束を抱えて出迎えに来ていた黒いベールを被ったお婆さんが私のところに駆け寄ってきて、『ヴィ ステ チンスカ ネボ ヤポンスカ(あなたは中国人ですか日本人ですか)?』ときいたんですよ。『セム ヤポンスカ(私は日本人です)』と答えましたら、いきなり私を花束ごと抱きしめて、『ヒロシマ ヒロシマ』って叫ぶんですよ。そして『私はリジッツェの生きて帰れた母親の一人です。あなたは日本人の母親。だからヒロシマの母親だ』と言うんです。そのとき私は絶句しましたね」

「リジッツェのおばあちゃんは私を抱きしめて『ヒロシマ、ヒロシマ』って言ったじゃないか。日本人だったら、広島・長崎の母親と一緒に何かをやらなきゃいけないと誓ったじゃないか。詩を書く人間だったらこれに応えないでどうする、と思ったのね」「思い悩んで、寝ても覚めてもじゃないね、夢の中でも……という感じで。それである朝、目覚めたときに、いきなり『青い空は青いままで子どもらに伝えたい』という一句が浮かんだの」と香子さんは言います。

このリジッツェの体験と革新都政を守るたたかい、子どもたちの未来を守る運動。それら全てが小森香子さんの心をくぐり抜けて「青い空は」は生まれた。

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