大江健三郎さん追悼 ヒロシマの普遍性を洞察

 

「九条の会」の九人のなかで「最年少」だった大江健三郎さんが3月3日、老衰のため亡くなりました(88歳)。

2005年3月に開かれた九条の会・広島講演会に、大江さん、澤地久枝さん、鶴見俊輔さんが来てくれました。

私が広島で経験したもっとも大きな講演会です。

「九条の会」の運動がなかったら、日本はすでに「戦争する国」になっていたことでしょう。

呼びかけ人のみなさんに心から感謝します。

澤地さん、いつまでもお元気で。

以下は、講演会のパンフレットに私が書いた講師紹介です。


ヒロシマの普遍性を洞察

大江健三郎さんは、1935年生まれ。「九条の会」の九人のなかで「最年少」です。

大江さんは、愛媛県で生まれ、高校時代に伊丹十三(俳優・映画監督)と知り合い、大きな影響を受けます。高校時代に感銘を受けた渡辺一夫氏が東京大学教授であることを伊丹さんから聞き、東大へ進学。仏文科在学中に大学新聞に発表した『奇妙な仕事』で作家デビューします。

大江さんは『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)『核時代の想像力』(新潮選書)など、ヒロシマを考え続けてきた作家です。

「私が被爆者たちの生涯から学んだのは、個人としての災厄の自覚に始まって、日本人としての、と展開する被爆の受けとめが--唯一の被爆者の国民感情という言い方は、政府筋もよく口にているが--確かにその段階まではナショナリズムと通うところがあったとしても『時』をへて、人類レベルの普遍性に昇華していることによってである。その普遍性の獲得は、被爆者たちの核廃絶の運動を、アジア侵略への積極的な反省とも結びうるものとした」(『言い難き嘆きもて』講談社文庫)。


新しい人の登場を展望して

1981年、大江さんは次のように書いています。

「人類としてはじめて核兵器の悲惨を経験した広島と長崎の人びとを持つ日本人が、日本人全体としては、その経験に学ぶことをせずにしまい、次の核戦争の引き金を引く役回りを志願する。それこそが、正直に言えば僕の近未来への予想です。しかし、それがペシミスティック(悲観的 引用者)でありすぎるゆえに、本来ペシミズムの罠(わな)にとらえられやすいのが常の作家としても、僕はそのまま滅亡の方向へかこうしてゆくままではいることはできぬと思うのです」(「核状況のカナリア理論」坂本義和編『暴力と平和』朝日選書)。

その大江さんが、2000年には次のように述べています。

「21世紀に対しては、新しい日本人がでてくるんじゃないか、と予感する。僕は『新しい人』と呼んでいるんですが。新しい個人ですね。個として責任を取る人、個として誇りを持っている人、そういう人たちが多くできて日本という国がいまの感じと違ってくるんじゃないか」(小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』中公文庫)。

若き日に「絶望しすぎず、希望を持ちすぎずというのがルネサンスのユマニストの生き方」だと師、渡辺一夫から言われた大江さん。障害を持つ長男、光さんとともに生き、ヒロシマと向き合うなかで、この言葉を人生の作風にし、「新しい日本人」の登場を期待し、書き続けています。

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