原爆ドームを守った少女
第65回 国民平和大行進 8月3日「府中町 原爆の碑」到着時のあいさつ
府中町議会議員をしております、二見伸吾と申します。府中町原水協を代表してあいさついたします。
広島市で生まれ、府中町で育った一人の少女が原爆ドーム保存のきっかけをつくったことはあまり知られていません。
その少女の名は楮山(かじやま)ヒロ子さんと言います。
ヒロ子さんは1歳の時、広島市平塚町――いまの中区平塚町――で被爆し、その後府中町に転居しました。
府中小学校、府中中学校を卒業。かすり傷ひとつなくずっと元気に暮らしていましたが、16歳になった3月中旬にからだのだるさを訴え日増しに衰弱し、検査をしたところ急性白血病だと分かりました。
そして、1960年4月、高校2年の時に亡くなったのです。
亡くなる前の年の8月6日の日記に「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでもおそる(べき)原爆を世に訴えてくれるだろう」と書いていました。
この日記を知った「広島折鶴の会」の小中高生が、ヒロ子さんの気持ちに応えようとドーム保存のための署名と募金をはじめました。
子どもたちの粘り強い運動は大人たちを動かし、当初、保存に否定的だった広島市長も「私の心を大きく動かしたのは、あの子たちの真剣な動きだった」と後日語ったといいます。
広島市議会も1966年、全会一致で原爆ドームの保存を決議。ようやく事態は動き出し、保存工事は行われたのです。
決議から30年後の1996年には世界遺産に登録されたことはよくご存じだと思います。そして2023年の今も、私たちの前にドームは立っています。
明日、行進は平和公園に到着しますが、ぜひ楮山ヒロ子さんのことに思いをはせて、原爆ドームを改めて見ていただければと思います。
本日はお疲れ様でした。核兵器が廃絶される日まで頑張りましょう。
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