広島県がなぜつくる 超エリート校
広島県は35人学級に背を向けながら、69億円もかけて超エリート校を建設し、2019年4月に開校しました。「広島県立広島叡智(えいち)学園中学校・高等学校」といい、ご丁寧にHiroshima Global Academy 〔HiGA (ハイガ)〕 という英語名まであります。
広島県教育委員会が作成した「《学びの変革》を先導的に実践する学校~ グローバルリーダー育成校(仮称) ~基本構想 」(2016年)によると「広島で学んだことに誇りを持ち、胸を張って「広島」、「日本」を語り、高い志のもと、世界の人々と協働して新たな価値(イノベーション)を生み出すことのできる人材」を育成するといいます。
生徒は、日本全国・世界中から募集し、定員は中学校1学年40人、高等学校1学年60人(うち外国人留学生20人)、全部で300人です。
世界を先導する人材「グローバルリーダー」を輩出するというと聞こえはいいですよね。しかし、グローバルリーダー、グローバル人材とはどのような人たちのことをいうのでしょうか。哲学者の内田樹(たつる)さんが次のように説明してます。
あるグローバル企業の経営者が望ましい「グローバル人材」の条件として「英語が話せて、外国人とタフなビジネスネゴシエーションができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、辞令一本で翌日海外に飛べる人間」という定義を下したことがありました。まことに簡にして要を得た定義だと思います。これは言い換えると、その人がいなくなると困る人がまわりに1人もいない人間ということです。
「グローバル人材」であるためには、その人を頼りにしている親族を持ってはならないし、その人を欠かすことのできないメンバーに含んでいる共同体や組織に属してもならない。つまり、その人が明日いなくなっても誰も困らないような人間になるべく自己陶冶の努力をしたものが、グローバル企業の歓迎する「グローバル人材」たりうるわけです。
これは「地に根づいた」生き方のちょうど正反対のものです。「地に根づいた人」とは、その人を頼る親族たちがおり、その人を不可欠のメンバーとして機能している地域の共同体や組織があり、「私はこの人たちを置き去りにして、この場所を離れることができない」と思っている人間のことです。そういう人間はグローバリズムの世界では「望ましくない人間」であり、それゆえ社会の下層に格付けされることになる。
(内田樹『脱グローバル論』講談社)
世界を股に掛けて働いているわけですから、地域と無縁に生きている。「その人がいなくなると困る人がまわりに1人もいない人間」。広島を語るかも知れないが、「広島に生きる」わけではない。根無し草なのです。
超エリート中学・高校を出たら、東京大学をはじめとする東京の超エリート大学へ行き、グローバル企業=巨大多国籍企業に就職することが彼らの使命です(ドロップアウトする人も当然いるでしょう)。
グローバル人材化された彼ら、彼女らは広島県に住むことはまずありません。日本にもいないかもしれない。就職した企業の儲けを国際的に増やすことが彼らの仕事です。広島県の超エリート校で学んだことは彼ら、彼女らのよき想い出にはなるでしょう。観光旅行で広島に帰ってくることもあるかもしれません。ときに海外でヒロシマについて話すということも考えられます。
しかし、卒業生の多くが広島県内で暮らすことも、地域のさまざまなことに関わることもなく、納税することもない。そういう彼ら・彼女らのために学校を広島県がつくり、県外、国外からも生徒を受け入れる。そして世界へ送り出す。
建設費だけで69億円です。なんと気前のいい県ではありませんか。
お金の使い道がないんでしょうか。そんなことはありません。
他県が国の制度の枠を超えて35人学級を広げているのに、広島県は大阪府、熊本県とともに、小学校1、2年生だけで上乗せなしです。子どもの医療費助成も遅れている、国保や保育料への助成もない。
アメリカに行ってエリート校を見てきた県の職員が「《その学校はパブリックスクール(公立校)なのか》と聞かれ、そうだと答えたらアメリカの担当者はあきれた様子だった」ということを、うれしそうに言っていたと、日本共産党の辻つねお県議から聞きました。
アメリカには超エリート校がありますが、私立です。公立学校はふつうの子どもたちのためにある。そのふつうの子どもたちの多くが、引き続き広島県内に住み、さまざまなかたちで広島県を支えていくのです。
税金の使い方、間違っています。
(完成イメージ図)
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