千尋が得た生きる力の源

2001年に観たときの感想を以下に。

 
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宮崎駿監督の最新作「千と千尋の神隠し」を観た。
 
10歳の少女、千尋を主人公にした冒険物語だ。宮崎監督は主人公と同年齢の少女たちに「だいじょうぶ。あなたはちゃんとやっていけるということを伝えたくて」この映画をつくったという。
 
この作品は、武器を振りまわしたり、超能力の力くらべこそないが、冒険ものがたりというべき作品である。
 
冒険とはいっても、正邪の対決が主題ではなく、善人も悪人もみな混じり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。
 
彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。(宮崎「この映画のねらい」)。
 
生きる力をどうやって千尋は獲得したのか? それは労働である。
 
「この物語で千尋は、〝自分探し〟をした訳でも、〝成長〟した訳でもありません。ただ、自らに湧き上がった自分自身の力に気付くのです」という解説にあるように、宮崎自身は、生きる力を獲得するプロセスよりも、それが誰の中にも潜在していることを描きたかったようだ。
 
しかし、その潜在的にあるものを顕在化させ、現実の生きる力にしたのは、湯屋で働くということであった。
 
人間は外界に働きかけることを通じて自分自身の本質(=人間性)を変化させるのである。そのことはやや駆け足ではあるけれど描かれている。
 
なにしろ「ここで働きたい」と言うことが千尋が迷い込んだ世界で生きていく唯一の道であり、仕事をもたないものは湯婆婆(ゆーばーばー)に動物にされてしまう。動物になるとは人格を奪われるということだろう。
 
さまざまな試練を乗りこえた千尋が最後、湯婆婆に試される。
 
数あるブタのなかから、ブタにされた父と母をみつけろというもの。
 
湯屋で働きはじめたときはブタの群から両親を探し出すことができなかったが、彼女はやはり「成長」していた。みごと正解し、そのとたん、湯婆婆の手にあった雇用契約書は消える。
 
千尋は本質を見抜く目をもつことによって自由を手にした。
 
この模様を見守る湯屋の働く仲間たちは歓声をあげた。

そこに、働くものどうしの友情と連帯(映画のなかではあまり描かれてはいないが)を読み取ることができる。

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