畑田重夫さん 追悼 「春を呼ぶ準備を若い世代とともに」

 

国際政治学者の畑田重夫さんが亡くなりました。

2003年に『畑田重夫先生傘寿記念-感動あれば生涯青春』(みずほ出版)へ寄稿したものを以下に再掲させていただきます。


畑田さんの講演を最初に聞いたのは、たしか1980年、高校二年のときだったと思う。1970年代前半の三つのショック(ドル危機、石油危機とベトナム戦争の敗北)から説き起こし、アメリカの相対的地位の低下が日本の情勢をどう動かし、それとどうたたかうのか。情勢の特徴を鮮やかに、そして立体的に説明され、高校生の私にもよく理解できた。講演会の直後に『国民のための学習法』(東邦出版、1980年。のち『現代人の学習法』と改題されて学習の友社)を買い求めて、むさぼるように読んだ。

それからちょうど10年後の1990年、私は生まれ育った神奈川を離れ、広島大学の大学院に入学。労働運動を研究するかたわらで、大衆的学習教育運動にかかわるようになった。初めは、ほんの手伝いのつもりだっだのだが、その面白さにとりつかれてしまった。博士課程へ進むという当初の予定を変更。周囲の心配と反対をよそに、広島県労学協の専従事務局長となった。92年秋のことである。

その2年後の94年8月3日、畑田さんから広島県労学協事務所に電話をいただいた。「原水禁世界大会で広島に来ています。お会いできませんか」。驚き、感激した。その日の晩、畑田さんの宿泊先を訪ねた。

「カネを残すのは下の下。仕事を残すのは普通。人を育て、残すことが人生最高の仕事です」。

そう言って、学習運動に入って間もない私を激励してくれたのだった。

そして、2003年の現在。私も広島県内を中心に講師活動をしているのだが、畑田さんの講義と著作から学び、自分自身の講義に生かそうと努力している点をあげてみたい。

第一に、大きな声ではっきり話すこと。たとえ内容のある話でも、伝わらなければ意味がない。畑田さんの話し方はいつもクリアだ。

第二に、結論の押しつけでなく、豊富なデータ(事実)で裏づけ、説得力をもたせること。次から次へと資料が出てくる「魔法のカバン」。流暢な英語で読み上げるニューズウィークやタイム、英字新聞…。とても畑田さんのようにはいかないけれど、できるだけ色々な立場の雑誌に目を通し、紹介するようにしている。

「いまのように複雑でテンポの速い時代にこそ多面的で、具体的な資料を駆使しながら、情勢を分析することが絶対的に必要」(『情勢をとらえる』水曜社、1975年)だからだ。

第三に、講義は内容とともに話す順序が大切。導入から本論そして結論へ、どのような展開をしたら分かりやすいのか、受講生の心をとらえられるのか、いつも苦労している。

そして、何よりも大切にしていること、畑田さんから学んだことは、「希望を語る」ことだ。情勢を語るさい、敵の攻撃の内容やねらいに話が終始すると、受講生の心に残るものが、あきらめや失望ということにもなりかねない。畑田さんの講演や著作は、それを聞き、読むものに、たたかう勇気と希望を与えるものになっている。

私もかくありたい、畑田さんのように語り、書けるようになりたい、と思い、亀のような歩みではあるが努力を重ねる日々を過ごしている。

畑田さんが、1962年に名古屋大学を去る際に大学新聞に寄せた論文のタイトルは「春を呼ぶ準備を」であった。

その論文はつぎにように締めくくられている。

「奴隷になることを欲しない。ましてや、死ぬことは絶対にいやだ、と若い世代はいう。だとするならばたたかう以外にないであろう……われわれもまた人民とともにとくにそのなかの若い世代とともに、明るい未来を信じて、そのためにたたかいつづけるであろう」(『新安保体制論』青木書店、1966年)。

畑田さんの人生は、まさにこの言葉通りといえるのではないだろうか。私も40年後、80歳になったときに「若い世代とともに、明るい未来を信じてたたかいつづけた。そして今なお、たたかいつづけている」と言えるように、努力したい。

そして、若い世代とともに春を呼び込みたいと思う。

 

  (ふたみ・しんご 広島県労働者学習協議会事務局長 40歳)

 

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