歴史学の手ほどきをしてくれた松尾章一先生

松尾章一先生
今年だったか去年だったか、松尾章一先生の訃報が届きました。
ボクが法政大学に入学した1982年は、先生は留学中でしたので2年生のときに歴史学の手ほどきをしていただきました。
歴史学特講(授業)と歴史科学研究会でのゼミがその場です。
服部之総は当然のことながら、あるとき、「二見くん、戸坂(潤)を読んだか。戸坂を読まなければダメだ」と哲学者、戸坂潤の著作を読むように勧められたのです。
『科学的精神の探求』(新日本新書)は読みましたと言うと「『全集』を読みなさい」と強く推され、バイト代で買い求めました。
戸坂は今でも断続的に取り組んでいます。
先生は歴科研のコンパにもよく参加され、パッと1万円札を出して、「あとはみんなで割りなさい」とご馳走していただきましたねえ。
服部之総伝をいずれ書くと先生はおっしゃっていましたが、2016年にそれを果たしました。
980ページの大著です。ずっと準備をされてきたのでしょうが、86歳にしてこれだけのものを刊行するのは偉業ですね。
ググるとウィキペディアなどに先生の没年がありません。
さて、今年だったのか、去年だったのか、一昨年だったのか。
ご存じの方は教えて下さい。
下記の記事は、先日、書類の間から出てきたもの。
法政の先生だからと、母が切り抜いていたようです。
迷わず不安定な助手の道へ 松尾章一
毎日新聞「めぐりあい」1982年2月23日
これまで私は、ずいぶんと多くのよき師と友人に恵まれてきた。そのような幸福をもたらしてくれたのは、服部之総先生とのめぐりあいであった。
先生とのおつき合いは、先生の再晩年のわずか三年たらずの短い期間であったが、今日まで不敏な私が歴史学を専門とする大学の教師として生活してこられたのも、服部之総先生との縁でつな
がっている人々のご援助にささえられてきたのだと思っている。
服部先生に私が最初にお会いしたのは、横浜国立大学学芸学部(現在教育学部)3年在学中のことであった。
1952年12月21日の夜、鎌倉市の御成小学校講堂で「民族と文化」と題する先生の講演会に、大学の恩師であった小林高四郎先生に連れられて行き、そこで服部先生に紹介されたのである。先生は私と握手されながら、一緒に勉強しましょうといわれた時の感激をいまだに忘れることはできない。
当時先生は、今の私とちょうど同年齢の51歳であったわけだが、ずいぷんと老大家のように感じられた。それ以後というものは、鎌倉山の先生のお宅に足しげく通う日が多くなった。
大学の卒業論文のテーマとなった「神奈川県下に於ける自由民権運動」は。先生からいただいたものであった。
卒論を書き上げた1953年12月某日、先生は5年間ぼくの助手となって勉強してみないかと申された。当時先生は法政大学社会学部教授をされていたが、助手といっても大学の正式なポストではなくて私的なものであった。
大学在学中に服部史学に心酔していた私は、恩師らのご推挙で大学の付属中学校の教師に内定していたのであったが、これを一方的に断るという非礼をあえて犯して、先生のポケットマネーから月々5千円をいただく不安定な助手の道を迷うことなくえらんだ。
1951年1月いらい先生は、小西四郎・遠山茂樹・松島栄一・吉田常吉氏らと日本近代史研究会を組織し、その代表として『回報近代百年史』を刊行し、これが爆発的な売れ行きとなって人気絶
頂であった。
先生はそのかたわらライフ・ワークとして『日本人の歴史の壮大な構想を実行に移すために私をその助手とされたのであった。いろいろと思い出多かったこの助手生活も、1955年7月4日、私は
長文の手紙を先生に送って決別することになった。
その年の暮れに先生は、ノイローゼを再発されて御茶の水の順天堂病院に入院され、翌年3月4日ついに不帰の客となってしまわれた。享年55歳であった。
その年の春、私は先生と縁の深かった法政大学の大学院に入学した。その翌年、服部先生のよき碁敵であった大内兵衛総長の直接のお声がかりで「法政大学八十年史」の編さんにたずさわることになった。
その実行委員長であられた谷川徹三先生は初対面の私に、ぼくは服部之総を歴史家として信頼しているので君にこの仕事を一任しますと、開口一番おっしゃった。
これがご縁で、谷川先生は私たちの結婚の媒酌人となっていただいた上に、大内先生そして現総長の中村哲先生ともども、法政大学の教師としてのこしていただく際に、非常なご尽力をいただくことになった。
▼松尾章一(まつお・しょういち)
1930年、京城生まれ。横浜国大教卒。法政大教授。近・現代史が専門で『日本ファシズム史論』『自由民権思想の研究』等の著作も。
▼服部之総(はっとり・しそう)
1901年、島根県生まれ、東大文卒。マルクス主義維新史研究の先駆で1928年発表の「明治維新史」は有名。中央公論の初代出版部長。戦後は日本近代史研究会を組織し後進を育成、法政大学社会学部教授をつとめた。1956年、55歳で死去。

服部之総












コメントを残す