外山滋比古さん ありがとうございました。
英文学者でお茶の水女子大名誉教授の外山滋比古(とやま・しげひこ)さんが7月30日、胆管がんで死去されました。96歳。
ボクが外山滋比古という名前を知ったのは、今から約40年前、高校生の時で、受験生向けの通信教育かなにかの宣伝用の冊子です。そこに外山氏のエッセイが載っていました。タイトルは「啐啄(そったく)の機」。
ちょうど1ページに収まっていたので切り取って台紙に貼り、ときどき読み返していました。
しばらくして、同氏の『知的創造のヒント』(講談社現代新書)を立ち読みすると、このエッセイが収録されています。すぐさま買い求めました。以下はその該当部分です。
啐啄の機ということばがある
得がたい好機の意味で使われる。もとは、親鶏が孵化(ふか)しようとしている卵を外からつついてやる、それと卵の中から殻を破ろうとする雛(ひな)とが、ぴったり呼吸の合うことをいったものである。
われわれの頭に浮かぶ考えも、その初めはいわば卵のようなものである。そのままでは雛にもならないし、飛ぶこともできない。温めて孵(かえ)るのを待つ。
時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。あまり長く放っておけばせつかくの卵も腐ってしまう。
また反対に、孵化を急ぐようなことがあれば、未熟卵として生まれ、たちまち生命を失ってしまう。丁度良いときにつついてやると、雛になる。単なる思いつきが、まとまった思考の雛として生まれかわる。
われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えの卵を頭の中で産み落としている。ただそれを自覚していないだけである。これが立派な思考に育つのは、ごく希な偶然のように思われている。
何でもない人間と人間が、たまたま知り合いになる。互いに不思議な感銘を与え合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまは違ったものになるということがある。
出会いである。一期一会(いちごいちえ)だと言う。
ここでは親鶏と雛の関係は喩えであり、脳内のアイデアがいかにして生まれるのかが主題です。
ボクはいつの頃か、生命の誕生と人間の成長を重ねて「啐啄の機」を理解するようになっていました。
「殻を破ろう」とする子どもたちに、親は、教師はどうするのか。
放っておくな、手出ししすぎるな。ここぞというときに手を差し伸べろ。
40年前に読んだこのエッセイは、ずっと私のなかで響きつづけています。
外山さん、ありがとうございました。
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