「教育をになう人びと」の労働組合運動

人生を変えた出会い 芝田進午先生と私」を見つけてくださった岩尾豊子さんからメッセージをいただきました。

 

芝田先生の「教育をになう人びと」の共著に、都職労本部執行委員で都立学校支部書記長だった夫が協力させて頂きました。そのご縁で、ノーモア広島コンサートにも行かせて頂くことが出来ました。芝田先生の検索からブログを見つけた次第です。

「学校用務員の現状と課題」をお書きになった岩尾哲弥さんですね。

 岩尾さんのメッセージをみて20年近く前の講演を思い出しました。第16回日本高等学校教職員組合(日高教 ※)全国学校現業職員研究集会(2006年7月28日)に呼ばれたときのものです。

講演録は2万5千字もあるので、「教育をになう人びと」の労働組合運動について語った部分を紹介します。(※)の付いた注は今回新たに加えたものです。

※日高教は、2014年3月に全日本教職員組合と組織統一しました。


 

教育をになう人びと

私の師匠である芝田進午は、『教育労働の理論』(1975年、青木書店)において、新たな「教育労働者」概念を提起しました。一般的には教育労働者とは教職員(教員と事務職員)という考え方ですが、芝田は「教師、事務職員、用務員、寮母、給食調理員、警備員など」その全てを「教育労働者」として規定したのです。

芝田はこの観点をさらに深め、教育労働者を、教員、学校事務職員、学校図書館司書、給食調理員、用務員、警備員、学童擁護員(交通安全の見守り)、障害児の寄宿舎における「寮母」、実習助手、大学の職員と共同研究をし、『教育をになう人びと』(1980年、青木書店)としてまとめました。

芝田はその基本的な視点をつぎのように述べています。

 「学校職員の量的増大とその質的役割にてらしてみるとき、(一)学校教育は、すべての職種の教員、職員のあいだの労働の分割と協業によっておこなわれていること、(二)教育労働のそれぞれの職種のあいだに〝貴賤〟がなく、相互間の非協力はもちろん、差別や分断の関係があってはならないこと、(三)これらの職種の教育労働者が平等の資格で対話しあい、民主的・科学的に労働を編成し、『職場集団』を形成するようになってこそ、教育もより全面的になり、より民主的・科学的になりうること、(四)このことをつうじてのみ全面発達と民主主義の教育も実現されるであろうということである」(『教育をになう人びと』10~11ページ)

みなさん方の実践はまさに芝田先生の提起とピッタリ。教員だけが教育労働者じゃなくて、学校にかかわる全ての労働者が「教育をになう人びと」であるという自覚のもとに、新しい労働運動をつくってきた。実はここにとても大切な意味があると思います。

飼われる労働運動か歴史をつくる主体としての労働運動か

それはまた、「飼われる」労働運動なのか、「歴史を創る主体」としての労働運動なのかということでもあります。

大阪市職で問題になっている背広の支給(※)ですが、私は給食調理員の方に割烹着を支給されることがあるのと同じように、事務職員に背広が支給されることはあってもいいと思っています。

 ※2005年、大阪市で係長級以下の職員に「制服」と称しスーツやワイシャツなどを実質的に支給していたことが問題になった。住民監査請求監査結果によると、スーツは制服としての着用率が低く、生地や色を自由に選べるなど、職務上不可欠なものではないと認定。市監査委員は条例に根拠のない違法な支出と判断、市長に対し、2004年度分の購入費約3億8千万円を市に返還するよう勧告した。

大阪市の場合は、制服として着用していなかったようなので問題ですが、制服としての背広、ブレザー支給は「あり」だと思います。

しかし、そうであるならば正々堂々と仕事に必要な服は支給すべきだと主張すべきなのです。

彼らはそうはせず裏取引で、しかも私用で着用するようなスーツを購入していた。こういうことをするから攻撃されるわけです。それは自分たちさえよければいいという、「飼われる労働運動」です。それゆえ、当局から「財政難だからだめだ」と言われ攻撃されたとき、ガタガタっときて持ちこたえられなかった。

みなさんの運動はそうではない。「歴史を創る主体」としての労働運動をめざしてきた。今の公務員攻撃に対する回答がこのテキストにある。こんなテキストがつくれるなんてとても素晴らしい。今の状況を乗り越えていくためのヒントがつまっている。それだけの実践をみなさん方がしてきたということだと思います。

日高教現業職員部の成果であり宝

ここから先はこのテキスト(『ゆたかな教育環境づくりと学校現業職の確立をめざして』)や日高教のホームページで読ませてもらったみなさんの実践記録から、ステキだなと思ったことをひろって、私なりの解説を加えたいと思います。

まずテキストの22ページに「基本的な観点」が次のように述べられています。

「学校教育はそこで働くすべての教職員の協力・共同でなりたっています。現業職員もまた、教職員の一員として学校教育に欠かすことのできない役割を担っています。それは子どもたちの学びや発達保障にとってきわめて重要な仕事であり、どの職種の人たちもそれぞれの専門的な仕事を通して子どもたちとかかわるとともに、子どもたちの健やかな成長と発達を願って日々仕事に励んでいます」

ほんとうにその通りだと思います。しかもこれは教育基本法から導き出される当然の要請なのです。

教育基本法の第1条にはこう書かれています。

 「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として真実と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んずる」(※)

(※)2006年に教育基本法は改悪され。第1条は次のように書き換えられ、「教育の目的」から「勤労と責任を重んじる」は外された。そのうえで新設された「教育の目標」に「職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」(第2条第2項)という格下げされた形でかろうじて残っている。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「勤労と責任を重んずる」とありますが、これを誰が教えるのか?だれが身をもって示すのか?先生だけじゃない。教育をになう人びと、学校に携わるすべての人びとが力を合わせて示すのです。「勤労と責任を重んずる」この姿勢を、教育をになうみなさんが子どもたちに見せていくことは、教育基本法に基づく要請だと思います。

 第2条はこうです。

 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない(※)。

(※)この第2条も全面削除された。

学校生活には授業もあるけれど、給食やクラブ活動、学校行事といろいろなことがあります。そういうなかでみなさんがさまざまな形で子どもたちと関わって、実際生活の中で子どもたちを育てあげていっている。

さらに言えば、さきほど引用した22ページに書かれている「基本的な観点」が、みなさんにかけられている厳しい攻撃をはね返す最大の武器だというふうに思います。

この観点にもとづく実践が「民間委託、定員削減阻止、身分確立の運動にとって決定的に重要」です。「よりよい仕事」を探求する実践と研修が、なぜ公務でないといけないのか、ということに対する回答になっているのです。なぜ公務なのか、そしてなぜ充分な人の配置がないといけないのか、安定した身分保障がされないといけないのかというのは、こういう実践をしているからですとズバッと答えられる。

「コスト」で教育を判断してはいけない

民間委託攻撃の手口は、みなさんがやっている仕事をゼニに換算して、「公務でやっているとこんなに経費がかかるのに、民間委託にするとこんなに安くなるんです」というものです。一つひとつ仕事をバラバラに分解してコストの問題にする。そろばんでしか考えない、机上の計算でしかないんです。学校職員の教育力がわかっていない。  

みなさんは日々学校にいて生徒のことを考え、仕事をしている。渡り廊下に雪が入り込んだら生徒がたいへんだろうと、予算がないなか工夫をしてシートをはるなんていうステキな仕事ができるんですね。

だから「こうした実践を教職員、父母・地域住民に知らせ、理解と共感を広げていくことが重要」なのです。これは17回総会の議案書に書かれていますが、その通りなんです。みなさんは謙虚ですから、「いやあこんなことは当たり前だよ」と言って、おそらくあまり外には知らせてこなかったのではないでしょうか。

しかし、そういう一つひとつの珠玉のような実践が、民間委託ではなく公務でなくちゃいけない、そこで働いている人は、今日明日生きていけるかどうかわからないような賃金ではいけない、ということの最大の回答になるのです。

除草作業で大激論

『高校のひろば』などに書かれた実践を読ませてもらって、とりわけステキだなと思ったことをいくつか紹介をさせていただきます。

これは昨年の夏の集会の技術・技能交流会で紹介された実践です。

「美化委員の生徒10人と花壇づくりをした」。こういうことを業者ができますか?お金を払えばこぎれいな花壇をつくることは業者にもできます。けれども美化委員10人といっしょに花壇をつくることは業者にはできないです。そんなことを業者がしたら、子どもを使ったと問題になるでしょう。でも現業職のみなさんは学校職員だから問題ない。実際生活に則し、勤労と責任を重んじる教育をするのですから。教育基本法のお墨付き。

なにしろが、少ない予算の中でなんとかやりくりする中で知恵が生まれました。OBの造園業者が安く木をもってきてくれるとか、地域の力も借り、生徒が主役の花壇づくりをする。

また「芝生の一部にガスバーナーで絵を描く」というのもありました。こういうことはちょっと考えつきませんね。

そして去年の学習会では、「刈払い機を長時間使って白蝋病になった者がいるという長崎の人の発言をきっかけに、除草作業について大意見交換会が始まりました」。

こういうことで論議ができるということがすごくステキだなと思います。

結果として「1.長時間やらない。45分やったら15分休む。2.ヘッドホーン式ゴーグル・耳栓・防振手袋の着用。3.初めて使用する者には教育しなければならない。4.水分補給も必要。5.上半身だけでなく、足を使うと腰の負担が減る」という実践や経験がみんなものとして共有されました。

業者だったら自分のところでもっているノウハウは他には出さない。それが市場原理なんです。けれどもみなさんは、そういう市場原理ではなく、協力・共同・団結の力でよりよい仕事をめざしてきたから、白蝋病になる人がでないためにはどうしたらいいかをめぐって白熱した論議ができるのです。これがとてもすばらしいことです。こういうことについて論議しているんだ、ということもぜひもっと知らせたらいいなと思います。

子どもたちの声を聞きながら

それから北海道高教組の原田さんの「嫌いな野菜が給食のおかげで食べられるようになった」「給食の時間がいちばん好き」「子どもたちと毎日顔をあわせ、子どもたちの反応を見て、子どもたちの声を聞いて、楽しく食事の支度をしています」。

埼高教の竹内さんは、「子どもたちに意識的に私たちの方から声をかける。とても照れくさそうにしているが、実はとってもうれしそう」といっています。
こういうことは給食が委託されたら難しくなっていく。職場が荒むからです。

ある元国立病院で病院給食が委託され、どうなったか。

髪の毛、タワシくず、そういったものが給食に混入しました。しかも直営だったらそれに対して直接注意できるのに、委託は直接注意ができません。委託先に抗議を入れて、そこから間接的に注意をしてもらうのです。しかも何より問題なのは、そういう委託で働いている労働者の賃金が安いこと。労働者の賃金をさげて、「安上がり」にするのが委託化のねらいです。しかし実際には労働者の賃金は激減するに比べて委託費そのものはそれほど安くならないのが実態のようです。

子どもたちと毎日顔を合わせ、子どもたちの反応を見て、子どもたちの声を聞いて誇りを持って働いている。だから、ちゃんとした処遇を求めるのは当然なのです。

そして青森高教組の武田さん、「仕事をするうえで心がけていることは、子どもたちの授業や健康を最優先にすることです。騒音の出る仕事や防虫などの薬剤散布は、子どもたちのいない時間帯に行います」

これはすごいなと思います。どこかの業者に頼んだら、現場はスケジュールがつまっているから、授業があろうがなかろうが、さっさとやって帰るでしょう。こういう配慮ができるのは、学校でたくさんの仕事をやって、その中の一つとして作業をしているからだと思うのです。

「民営化で同じ仕事が安くなる」はフィクション

民営化攻撃の最大の弱点は、民間になってもサービスは同じだというのがフィクション、ウソだということです。

同じサービスが民間にするとこれだけになりますよ、という計算をそろばんずくでするわけですが、いい仕事は確保できないということです。このことは今まで部分的に実施されている民間委託、民営化ではっきりしています。民営化されて前と同じ仕事はありえません。

うちの子は今年中学1年生になりました。広島市は悪名高きデリ弁=デリバリー給食です(※)。おかげで私もかあちゃんといっしょに朝交代で5時起きで子どもの弁当をつくっています。

デリ弁当がまずいと子どもたちはいう。それでも広島市は絶対に直営給食をやろうとしないんです。金がかかると言って。給食をするための金は国からおりてきているんですが、それをデリ弁に使っています。まずくて子どもたちはみんなやめたいと言っているんだけれど、弁当をつくれる条件にある家庭ばかりじゃありませんから、泣く泣く子どもたちはまずいデリ弁を食べさせられているのです。

弁当づくりはとくに夏は大変なんですよ。腐りやすいから。学校給食なら、あったかいものをそのまま子どもたちに出せるじゃないですか。

日本は貧乏な国じゃないんです。世界第2位の経済大国で、なぜ子どもたちに給食を食べさせるカネを惜しむのか。弁当をつくらされながら、私は痛切に思うのです。

 (※)広島市は市民の声に押されて2022年度からデリバリー給食を段階的に廃止。しかし、デリバリー給食に替わるのは自校調理ではなく、大規模センター方式である。
 
教育をになう人びとの連帯が安全・安心の学校をつくる

池田小の事件(※)が起きたときに、全教の人から学校職員が減っていることを知って、なるほどと思いました。ぼくらが子どものころは用務員さんがちゃんといて、実は見えないところで子どもたちの安全を守ってきたんですね。

テキストにもちゃんと書いてあります。

「教員には見えない子どもたちの姿を現業職員が把握しているということはたびたびあります。教員をはじめとして学校で働くさまざまな職種が学校づくりに参加し、子ども・生徒の発達と成長をささえる学校をつくっていくことを教育基本法は求めている」とあって、これもその通りだと思います。

(※)2001年6月8日、大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に、刃物を持った男が侵入。小学1年生と2年生の児童8人の命が奪われ、15人が重軽傷を負った。

 子どもたちはいろんな面をもっているから、教員とさまざまな職種の「教育をになう人びと」が、みんなで意見を出し合って子どもの情報を共有しあうということ。学校が荒れるとまずトイレのドアが壊れます。そういうことにいち早く気づくのは現業の人です。

ですからみんなが知恵と力をだす。「教育をになう人びと」あるいは「教育労働者」は教員だけじゃない。学校で働くすべての人は、子どもたちに教育力を持っています。ぼくも中学、高校と生徒会活動をしてきましたので、現業の人たちにはほんとうにお世話になって、学校行事やら何やらでいろんな援助をしてもらって感謝をしています。たとえば鎌の使い方、鍬の使い方というのを含めていろんなことを教わったと思います。

池田小の話にもどりますが、これはもっと学校に人がたくさんいることが、真の安全につながるのです。いま学校がやっているのは、警備会社を入れることです。警備会社は常には学校にいません。たまに巡回に来るだけでしょう。あとは警報装置まかせ。けれどみなさんは日々学校にいるんです。みなさんが学校にたくさんいることで、おいそれと不審人物は近づけないし、近づいてもすぐに察知して対応がとれるということです。

建物の構造では安全は守れない

うちの子どもの3番目はまだ保育園にいるんですが、数年前、全国保育団体合同研究集会に参加しました。園舎がボロボロなので、園舎の分科会にいったのです。ちょうど池田小の事件の直後で、建築士さんを交えて、いろんな保育園の安全を守る話をしていたんです。

印象的だったのは、「部外者が侵入しにくい構造の建物をつくることはできる。塀を高くするとか、入り口を一カ所にするとかすれば侵入者を防ぐことはできる。けれども侵入者がそれを突破したときに、侵入しにくい構造は逃げにくい構造になる」という話でした。 確かにそうです。池田小のように侵入者が入ったとき、もし高い塀があったら子どもたちは逃げ場を失うわけです。逃げやすくすれば、侵入者も入りやすい。

つまり建物の構造で子どもたちの安全は守りきれないということです。

だから、人が学校にどれだけいるのか、ということが大切なんですね。

教育をになう人たちが学校の中にたくさんいればそれだけ子どもたちの安全を守ることにつながります。その意味でも現業職を減らしていくということはもってのほか。安全な学校をつくりたいならば、現業職をちゃんと配置し、不審人物が入ったときにすぐ気づけるような状況をつくればいい。

坂井さんが「ただ『効率化』を叫ぶだけでは学校が崩壊していく」と実感のこもった言葉をお書きになっていますけれども、ほんとうにそうだと思います。そもそも教育の分野に効率優先なんてなじまない。非効率おおいに結構じゃないか、それよりは子どもの命と安全、そして豊かな学校生活をどう保障するのかというところから、ものごとを考えてみませんかという呼びかけを、もっともっと広く市民の中にしていくことが求められている。

このテキストとこのテキストに基づく実践、そしてそれを隠さず、市民のなかに、そして高教組、日高教のなかでももっと広げていくことが大事です。みなさんは非常に大事な、かけがえのない仕事をしていることの誇りを、もっと広く市民の中にきちっと伝えていく。それが、みなさんにかけられている攻撃をはね返す最大の武器になるのです。

現状はたしかに厳しい。しかし、ただ厳しいだけではなく、その厳しさの裏側にある、明るい希望がある。それは日々、みなさんの実践のなかから生みだされているのです。そういう実践を集大成したステキなテキストがある。ぜひこの点に自信を持って、頑張っていただきたいと思うのです。

もうひとつの日本とは

 もう一つの希望は憲法です。

「もうひとつの日本」は、世界社会フォーラムの「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを参考にして全労連が提唱したものです。「もうひとつの世界」は、世界の人口の約5%のアメリカが、世界の富の6割を独り占めにするような、アメリカ中心の世界ではない、もう一つの世界をという意味です。今のところ「もうひとつ…」の具体的な方向性はないんですね。また、そこがいいんですが…。

「もうひとつの日本」にはもう少し明確な方向性があります。それは日本国憲法に基づくもうひとつの日本だということです。

一つは「恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生きる権利がある」ことです。これは「平和に生きる権利」「平和的生存権」と呼ばれ、世界で最初に日本が憲法として世界に発信したメッセージです。悪政の恐怖から免れて自由に、欠乏から免れて豊かに生き、そして戦争がなく平和に生きることです。戦争がなく平和な状況のもとで、人々が自由で豊かに生きる社会をこの世界につくろうと日本国憲法は世界に向かって呼びかけました。そしてそれは、13条にある、すべての人がもれなく大切にされる、個人として尊重される国であるし、25条がいう健康で文化的な暮らしを誰もがおくれる社会であるということです。

もうひとつの日本は、教育基本法が全面実施されます。

いまの教育のゆがみが正される。教育基本法が行政に求めているのは条件整備。教育の中身は先生方にまかせて条件整備をするのが、教育基本法が教育行政に求めていることです。ところが日本の文部省、文部科学省がやってきたのは、教育の中身にさんざん口を出して、教科書を検定し、そして肝心の条件整備については予算をケチる。ボロボロ校舎でも直す予算がないということになっているんです。まったく逆立ちしています。だからこれも教育基本法通りにするのです。

憲法を実現すれば要求は実現する

教育基本法と憲法に照らして、現業職員のあり方はどうなのかを考えたら、みなさんがずっと求めてきた身分保障を明確にするということは当たり前だということになるでしょう。憲法を守りぬくことに私たちが成功したら、その次は憲法に基づいたもう一つの日本をつくろうという運動に必ずなります。

憲法を実現する方向で日本が動き出したら、それぞれの労働組合が掲げている主要な課題はあらかた解決します。国鉄1,047名の解雇の問題を、憲法の、一人ひとりが大事にされないといけないという基準で解決を図れば、それは撤回と謝罪、相当の補償ということになります。

自治体もそうです。憲法に基づく、あるいは地方自治法に基づく自治体のあり方からは、民営化という話は出てこないわけです。

しかし、残念ながらまだ多くの労働組合で、憲法は憲法、自分のところの課題は自分の課題、2つの道でいってしまっています。違うんです。憲法のたたかいが扇の要。要をはずすと扇はバラバラになってしまうでしょう。さまざまな個別の課題の扇の要として憲法を位置づけて、憲法を守り実現する運動を強めるなかで、自分たちの課題をたたかっていく。こういう方向にこれからの労働組合運動は進んでいかねばなりません。憲法がたたかいの土台であり、憲法の実現が要求実現そのものだからです。この関係がつかめないと「あれもあるこれもある、そのうえ憲法もあるのか」ということになり、こういうたたかい方では、ただでさえ多忙化しているなか、力強い運動をつくり出すことはできません。

憲法を守っていく大きな流れのなかに、みなさんの身分保障を実現し、攻撃を打ち破っていく最大の武器があるし、もう一つはこのテキストに基づく実践がさらにそれを光り輝くものにするということです。

 

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