人生を変えた出会い 芝田進午先生と私

◆芝田先生と出会わなければ

人生を変える出会いというものがある。わが師、芝田進午との出会いはまさにそうであった。現在私は広島で大衆的学習教育運動にたずさわっているが、芝田先生と出会わなければ、広島にいることすらなかったであろう。
師は、2001年3月14日、永眠。心から哀悼の意を表するとともに、芝田進午先生の思い出を綴ることで、師を偲びたい。

人間性と人格の理論

「活動家であるものはこれを読まなくてはいけない」

法政大学時代に先輩がそういって勧めてくれたのが、芝田進午著『人間性と人格の理論』(以下、『人格の理論』)であった。お金がなかったので、神田の古書店で探して買い求め、むさぼるように読んだ。そして引用されている文献について手紙を書いて質問した。

当時私は、大学のゼミで自分の考えとは違う立場の見解について、揚げ足取り的な発言ばかりしていた。ゼミの教官(江村栄一先生)がそんな私をみかねて「相手の言っている本筋のところで批判をしないと意味がない。マルクスも『法哲学批判』で『相手のもっとも強いところを批判せよ』と言っているのだから」とたしなめた。いささか反省するとともに、さっそく『ヘーゲル法哲学批判』を読んでみたが、そんな文言はなかった。それが『人格の理論』に引用されていたのだ。

「グラムシが、政治闘争と軍事闘争では敵のもっとも弱いところをつくべきであるが、理論闘争では敵のもっとも強いところをつけと主張した」(『人格の理論』p.321)。 大学の図書館にいき、合同出版のグラムシ選集をひっぱりだして該当ページをみるが、出ていない。どの全集をみればいいのかというような質問だった。

ていねいな返事がとどく

ほどなくして、ていねいな返事が来た。そこには、執筆当時には邦訳がなく、イタリア語原典の全集版の巻数、ページ数であること、合同出版の『グラムシ選集』では、第2巻のp.168~9ページであること、そして、東京に住んでいるので遊びにいらっしゃいとまで書いてあった(当時、私は神奈川県の自宅から大学へ通っていた)。手紙とともに、芝田先生が新聞や雑誌に書かれたもののコピーがどっさり入っていた。

名も知らぬ一学生にここまでしてくれるのかと感激した。送られたコピーも繰り返し読んだ。そして、新宿戸山の自宅にも伺わせてもらった。

それから自宅で開かれている日曜セミナーや水道橋の労音会館での社会科学研究セミナーに顔をだすようになった。


(芝田先生から届いた手紙。ヒロシマ紀元41年1月20日とある。西暦では1986年。ヒロシマ紀元は芝田先生が提唱した時代区分。人類の歴史は1945年の8月6日以前と以後とで区分される。ヒロシマ紀元以後、人類絶滅の危険性に直面し人びとはそれとたたかい克服するという課題を背負うようになった。)

広島大学へ

研究者志望であった私は大学4年のときとその翌年と都内の大学院を2つほど受けたが合格せず、そのままアルバイト先に就職した。仕事は面白かったが、3年ほどたったころ、「このままでいいのか」という内なる声が大きくなり始めた。

その頃読んだ、渡辺治『現代日本の支配構造分析』(花伝社)に刺激され、再び研究者への道を考え始めた。自分の研究テーマを戦前の農民運動から現代の労働・社会運動へ設定し直し、さて、どこの大学院が受け入れてくれるかと考えたところ、労働運動について指導できる教官がいる大学院はそう多くはなかった。そして、芝田先生のいる広島大学を受験することにし、さいわいにも合格した。1990年春である。

テーマ設定をめぐって

大学院芝田ゼミのゼミ生は4人で、ゼミは先生の研究室で行われた。『資本論』や『経済学・哲学草稿』などを輪読。私は研究テーマを労働・社会運動とはしていたものの、修士論文で扱う具体的な研究対象を何に据えるのかが定まっていなかった。私が当初、考えたのは地域を単位にした地域労組(コミュニティ・ユニオン)についてであった。

ゼミでの報告で、地域の重要性を指摘する際に不用意に「職場だけでなく地域を」という文言を使った。いつもにこにこしながら報告を聞いて、コメントをする芝田先生であったが、このときだけは厳しい表情をして次のように言われた。

職場とともに地域を

「~だけでなく…を」というのは私が一番、排してきた考え、非弁証法的な考えです。「職場だけでなく地域を」というスローガンは職場闘争を軽視することになり、実践的にも誤りに陥ることになる。職場闘争をおおいに展開し、時短(労働時間の短縮)などもかちとることがなければ、どうして地域へ出ていくことができるでしょう。あなたのいわんとすることは「職場とともに地域を」というふうに言いかえなければならない。

強いショックを感じた。言葉を厳密に使うことの重要性を思い知らされた。そして、「その地域労組というのは広島にあるのですか」と芝田先生は尋ねた。いまは広島にも地域労組があるが、当時はなく、「大阪にはあるのでその事例を研究しようと思う」と返事をした。すると、「あなたはせっかく神奈川から広島に来たのだから、広島の労働運動の研究をしなさい」とすぐさま言われた。

ともにたたかって書け

なかばやけくそで「では、何をやったらいいんですか」と開き直った。「第一学習社という教科書会社があって、そこに出版労連の組合がある。長い労働争議が続いていますが、なかなかいいたたかいをしていて、もう少しで勝てそうだから」と芝田先生はいう(1993年、争議は全面解決勝利。解雇された2人の組合員は原職〔教科書編集〕復帰した)。

「わかりました。とりあえず連絡先を教えて下さい」というと「いや、その必要はありません。いま、ここから電話をします」といって研究室の黒電話をとった。

「これから、二見君という大学院生をいかせます。封筒貼りでも何でもやらせてください。それが私の指導方針です」といって電話を私に渡した。

「どこかの組合に行って資料をもらって、その資料で書くというのはダメです。いっしょにたたかって、そのなかで論文を書きなさい」

そう芝田先生は私にいった。

指導教官の言われるがままにテーマを決めるのはいやだと思ったが、第一学習社労組の高瀬均さんや小林和俊さんの話を聞き、「この争議をテーマにするとともに勝たせたい」と考えるようになっていた。授業の合間を縫って労組書記局へ通う日々が始まった。

世界という書物を読む

芝田先生はいつも「世界という書物」「現実という書物」を読むことの重要性を語った。そして、先生自身がつねに目前の現実と格闘し、そこからみずからの思想を深めていかれた。ベトナム戦争、ヒロシマ、そして氏自身が「人生最後、最終のたたかい」と呼んだ予防衛生研究所(現、衛生研)とのバイオハザード裁判……。

「ドラマという思想」というエッセイがあり、そこで芝田先生は次のように述べている。

「思想というもの」は、「たんなる学問的諸命題の体系ではなくて、現実が提起する諸課題と格闘し、それらを解決し、実践的指針を引きだす思想的・理論的活動・能動的営みではないだろうか。現実が提起する諸課題は、どれもこれも新しく、初めての問題提起であって、それに対する解答は、できあいの公式や、〝模範解答的教科書〟のなかに容易に見いだすことはできない。

しかも、それらの諸課題の多くは、緊急に提出されたものであって、無限に解答をひきのばすことも、沈黙し無為にすごすこともゆるさず、即座に、あるいは時間ぎめで解答することをせまってくる。

そのうえ、その解答のいかんによって、みずからの運命、ひいては自分のぞくする集団、階級、民族、人類の運命が左右されるような場合も少なくない。現実が提起する課題を受けとめ、それについて、かぎられた時間内に、研究し、思索し、判断し決断し、実践にうつす。これこそが思想のあり方であり、思想の本領にほかならない」

「マルクスの思想をたんに学ぶだけでは、それをドグマとしておぼえただけのことであって、まだマルクス主義者ないし科学的社会主義者となったとはいえない。現実との格闘をつうじて、その思想をドラマティックに運用・活用できるようになること、そのことを通じて人生と世界史のドラマを生きること。そのことにこそ、ある思想が思想になった、思想的に獲得されたといえるのであろう」(『人生と思想』p.52-3)

いささか長文の引用となったが、まさに芝田先生の「人生と思想」の繋がりが述べられている。

(2001年3月15日執筆)

(先生の主著『人間性と人格の理論』にサインしてもらった。グラムシの「情熱のみが理性を鋭くする」という言葉が添えられています。30歳のとき〔1961年〕の著作。うーん、とてもかないません)

2018-06-21 | Posted in 仲間・家族・師匠No Comments » 

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