山ノ木竹志(新江義雄)とは。
もくじ
畏友、山ノ木竹志さんが逝ってから15年。折に触れて書いたものを掲載します。
1.山ノ木竹志さんとの別れと出会い
畏友、山ノ木竹志(本名 新江義雄)さんが昨日(2009年10月23日)午後2時に亡くなりました。1年ほど前に大腸ガンが見つかって闘病中だったのです。
昨日の朝、石口俊一弁護士から「新江さん危篤」の連絡があって、病室に行きました。顔を動かして必死に呼吸をしている状況。
「新江さん、もう一曲作ってや」と声をかけましたが、返事はありません。後ろ髪を引かれる思いで、京都に向かいました。日本のうたごえ祭典が京都であるのです。
午後2時過ぎ、第一学習社労組の元委員長、高瀬さんから「いま亡くなった」と訃報が入りました。
「ああ、ついに逝ってしまったのか」
合唱発表会Aでは、山ノ木竹志作詞作曲の「人間の歌」をうたったグループが4つ。
山ノ木日本語詞の「ディープリバー」をうたたグループもいましたし、広島合唱団は「歌わずにいられない」を涙をこらえて歌ったのです。どのグループの歌も、とてもよかったです。
指揮者、高田りゅうじさんが「本日、山ノ木竹志こと新江義雄が亡くなりました」と伝えると会場はどよめきました。
山ノ木さんとの出会いは1992年1月。
第一学習社争議の解決まぎわでした。アステールプラザで、2月18日「争議解決をめざすつどい」を開くことになっていて、その準備のなかでです。ボクはつどいの「名ばかり事務局長」でした。
集会成功に向けて組織は着々と進んでいました。しかし、中身が決まらない。ゲストに梅原司平さんを呼んでコンサートをすることだけは早々と決まっていましたが、第一学習社労働組合の19年のたたかいをどうやって伝えるのかが決まらない。
「ただのコンサートじゃあだめ。演劇にすべきだ」と私は主張。しかし、シナリオはない。音楽センターの専従でこの集会の担当だった中島雅美さんが正月明けに不慮の事故で亡くなる。さてどうするのか、そういうせっぱ詰まった状況のなかで、新江さんは登場したのです。集会当日までわずか、1ヶ月。
それはまさにドラマのようでした。
新江さんが企画グループに加わってから、「合唱構成 人はみな人間らしく生きたい」が動きだし、第一学習社労組の組合員と家族の証言、映像、山ノ木竹志の作り出すうた、で舞台がつくられていきました。
当日は、1200人の会場に1400人を超す人びとがつどい、舞台の進行とともに、怒り、共感し、涙する集会となりました。
会社は、集会翌日、労働組合に対して「争議解決」を約束。高瀬さん、小林さんの解雇は撤回され、
20年近くつづいた争議は全面解決したのです。
労働者のたたかいと文化運動ががっぷり組みあい、力をあわせるとこんなことができるのだ、ということをボクは身をもって知りました。
*********
2.山ノ木竹志の仕事
昨年(2009年)10月23日、山ノ木竹志こと新江義雄さんが亡くなりました。
山ノ木さんは、①自ら作詞作曲してうたをつくり、②他の人びとのうたづくりを援助し、③うたごえ祭典やコンサートを企画・構成し、④うたごえ運動をはじめとするさまざまな運動にかかわって人びとを組織する、という仕事をしました。
八面六臂の活躍です。ここでは第一のうたづくり、についてお話ししたいと思います。
山ノ木竹志の詞
山ノ木さんはたくさんのうたをつくりましたが、運動のなかで歌をつくるようになったのは、1987年から。もみじ作業所の法人化をめざす運動がきっかけです。
作詞も作曲も手がけた山ノ木さんですが、やはり、山ノ木さんの真骨頂はその詞にあるでしょう。
今では広く歌われている「人間の歌」は、国鉄分割民営化のなかで仕事を選ぶか、仲間を選ぶかで悩み、苦しみ、「死を択んだ」国鉄マンたちへ捧げたレクイエム(鎮魂歌)です。
働くものたちへ優しいまなざし、「痛み分けあい楽しさ分かち生きてゆきたい」という連帯のこころ…。「歩いていきたい。人間らしく」と、未来を決して悲観しません。
彼は「共感共苦」(compassion)「覚醒」ということばをよく口にしました。
他者の苦悩への想像力をはたらかせること、他者の苦悩に心をよせることが「共感共苦」。
山ノ木さんは、作業所で働く仲間たち、争議でたたかう組合員(なかま)たち、戦争や飢えで苦しむ世界じゅうの子どもたち、大人たちに心よせ、「共感共苦」しながらたくさんの詞をつくりだしてきました。
また、人びとが「覚醒」することに対してのゆるぎない信頼がもう一つの詞のベースになっています。
覚醒とは、目覚めることです。人びとは、他者によってむりやり起こされるのではなく、さまざまな経験を通じつつ、互いに働きかけあう中で「自覚」する。そのことへの深い信頼がありました。
だから、彼の詞は「あせり」とか、「押しつけ」(~ねばならない)とは無縁。
品があって美しい「たおやかな未来」(リパブリック讃歌)を決して見失わないのです。
うたの精髄をつかみだす
山ノ木さんは、乱読の人でした。社会科学、哲学、古代史、文学…。
アメイジンググレイスやリパブリック讃歌などの日本語詞をつくるときは、さまざまな本を読み、その歌の背景をよく調べていました。
そして、それらが山ノ木さんのなかで熟成し、あらたな詞がつむぎだされています。元の詞の精髄をつかみつつ、いま生きる私たちの気持ちにぴったりする言葉。
「誓い」(曲 安広真理)は、韓国の労働詩人パク・ノヘの詩「対決」の「日本語詞」なのですが、全くと言っていいほど、使われている言葉がちがう。
しかし、その詞のこころはきっちり踏まえています。
詩人だなあ、と思うのですが、本人は「わしの書くのは詞であって、詩ではない。詩人はやめてくれ」と照れていました。
最後の日本語詞
山ノ木さんが病床で最後に創った日本語詞は、ピートシーガーの「花はどこへいった」です。
日本で長らく歌われてきたのは、おおたたかし訳詞 安井かずみ補作のものですが、原詞の一番大切な「いつになったら戦争を繰り返す過ちに気づくのだろうか」というメッセージが抜け落ちています。
山ノ木さんの日本語詞はその心に忠実に、しかもやさしい言葉で表現しています。
戦争を憎み、平和な社会をつくることをねがっていた山ノ木さんにふさわしい最後の仕事だといえるでしょう。
*********
3.CDブック「山ノ木竹志 歌つづり 歌わずにはいられない」発刊に寄せて 2010年 確定稿
昨年10月23日、山ノ木竹志さんは亡くなりました。それから半年が過ぎようとしていますが、5月15日、山ノ木さん自選50曲を収録したCDブック「山ノ木竹志うたつづり 歌わずにはいられない」がようやく完成します。
山ノ木さんとボクの出会いは1993年1月。教科書出版社・第一学習社の労働争議の解決まぎわ。ボクは集会の事務局長でした。翌2月18日に迫っていた「争議解決をめざすつどい」の中身がなかなか決まりません。そういうせっぱ詰まった状況のなかで、彼が登場したのです。
争議解決導く歌
集会当日までわずか1ヶ月でした。彼が企画グループに加わってから、合唱構成「人はみな人間らしく生きたい」が動きだし、第一学習社労組の組合員と家族の証言、映像、山ノ木竹志の作りだすうた、で舞台がつくられていきました。当日は、1200人の会場に1400人を超す人びとがつどい、舞台の進行とともに、怒り、共感し、涙する集会となりました。会社は集会翌日、「争議解決」を約束。20年近くつづいた争議は全面解決したのです。労働者のたたかいと文化運動ががっぷり組みあい、力をあわせるとこんなことができるのだ、ということをボクは身をもって知りました。
「共感共苦」
山ノ木さんはたくさんのうたをつくりましたが、運動のなかで歌をつくるようになったのは、意外と遅く1987年から。
もみじ作業所の法人化をめざす運動がきっかけです。彼は「共感共苦」(compassion)ということばをよく口にしました。
他者の喜びや苦悩に心をよせることが「共感共苦」。作業所で働く仲間たち、争議でたたかう組合員(なかま)たち、戦争や飢えで苦しむ世界じゅうの子どもたち、大人たちに心よせ、「共感共苦」しながらたくさんの歌をつくりだしてきました。その歌たちは、運動する人びとを励まし、それぞれの運動の発展、勝利に大きく貢献したのです。
「花はどこへ行った」
山ノ木さんが病床で最後に創った日本語詞は、ピート・シーガーの「花はどこへいった」です。
日本で長らく歌われてきたものは、原詞の一番大切な「いつになったら戦争を繰り返す過ちに気づくのだろうか」というメッセージが抜け落ちています。山岡靖子さんの訳をみせて「本当はこういう内容なんじゃ」といいます。それをみて初めて「花はどこへいった」がなぜ反戦歌だといわれるのかが分かりました。
それから数日で、山ノ木日本語詞はできあがり、忠やん(山本忠生)とも意見交換して仕上がったのです。やさしい言葉でつづられた彼の日本語詞は原詞の世界をみごとに再現していると思います。戦争を憎み、平和な社会をつくることを願っていた山ノ木さんにふさわしい最後の仕事だといえるでしょう。
人生は短い しかし…
山ノ木さんは、病床でこのソングブックをまとめながら、「本棚に飾る本じゃなくて、ジョー・ヒルのつくった『小さな赤いソングブック』やかつての『青年歌集』あるいはいまの歌集『うた・うた・うた』のように、気軽に持ち運べて、うたう会、うたごえ喫茶などで使って欲しいんじゃあ」と言っていました。
Life is short, but Art is long(人生は短い。しかし作品は永らえる)。彼のつくった歌たちが歌われつづけていくかぎり、山ノ木竹志は生きつづけるのです。
(週刊「うたごえ新聞」2010年5月10日号 掲載)
*********
4.CDブック「山ノ木竹志 歌つづり 歌わずにはいられない」発刊に寄せて 2010年 初稿
昨年10月23日、京都でのうたごえ祭典初日開始直前に山ノ木竹志さんは亡くなりました。それから半年が過ぎようとしていますが、5月15日、山ノ木さん自選50曲と編集委員会が追加した2曲が掲載されたCDブック「山ノ木竹志うたつづり 歌わずにはいられない」がようやく完成します。
山ノ木さんは10代後半から500曲以上の作品をつくりました。そのなかかから、みんなにうたってほしい歌を山ノ木さん自身が厳選。何度も選び直し、構成も何回かかえ、確定したものがこのソングブックです。
第1部「ひとつの歌から」は、もみじ作業の仲間たちとつくった歌や、全国のうたごえの仲間たちとつくった歌などが収録されています。
第2部「ねがい」は、グレートジャーニー三部作やピート・シーガーの「虹の民」など平和をテーマにした歌たちです。
第3部「海ははてなく」は、「シェナンドア」や「ウスクダラ」など世界じゅうの民衆の歌が山ノ木日本語詞で紹介されています。
第4部「みんな元気か」は、「8時間ソング」や「人間の歌」などの労働歌や「新憲法ブギ」や「一度だけの人生だから」など憲法ミュージカルのナンバーが主になっています。
この山ノ木さん自選の50曲に編集委員会の特別推薦2曲を付けくわえました。
「僕は生きている」は、あまりに状況に付きすぎているのでどうかということになったのですが、ジョーヒルのメッセージはそのまま、新江さんのメッセージだと思い、収録することにしました。もう一曲の「すみれの花」は新江さんの処女作。友人のたかだりゅうじさんが「彼の原点」を残しておきたい、と推薦しました。
いい曲はまだまだたくさんあるんですけどね。
全曲ではありませんが、半分以上の曲に山ノ木さんがつけた解説・コメントがあります。彼自身が書けなかったものについては、一緒につくった友人たちが解説を書きました。
今年1月に行われた「山ノ木竹志をうたうコンサート」、昨年1月の『山ノ木竹志とその仲間たちコンサート」のなかから19曲が収録されたCDが付いています。
山ノ木さんはたくさんのうたをつくりましたが、運動のなかで歌をつくるようになったのは、1987年から。もみじ作業所の法人化をめざす運動がきっかけです。
今では広く歌われている「人間の歌」は、国鉄分割民営化のなかで仕事を選ぶか、仲間を選ぶかで悩み、苦しみ、「死を択んだ」国鉄マンたちへ捧げたレクイエム(鎮魂歌)です。
働くものたちへ優しいまなざし、「痛み分けあい楽しさ分かち生きてゆきたい」という連帯のこころ…。「歩いていきたい。人間らしく」と、未来を決して悲観しません。
彼は「共感共苦」(compassion)「覚醒」ということばをよく口にしました。
他者の苦悩への想像力をはたらかせること、他者の苦悩に心をよせることが「共感共苦」。山ノ木さんは、作業所で働く仲間たち、争議でたたかう組合員(なかま)たち、戦争や飢えで苦しむ世界じゅうの子どもたち、大人たちに心よせ、「共感共苦」しながらたくさんの詞をつくりだしてきました。
また、人びとが「覚醒」することに対してのゆるぎない信頼がもう一つのベースになっています。覚醒とは、目覚めることです。人びとは、他者によってむりやり起こされるのではなく、さまざまな経験を通じつつ、互いに働きかけあう中で「自覚」する。そのことへの深い信頼がありました。
だから、彼の詞は「あせり」とか、「押しつけ」(~ねばならない)とは無縁。品があって美しい「たおやかな未来」(リパブリック讃歌)を決して見失わないのです。
山ノ木さんは、乱読の人でした。社会科学、哲学、古代史、文学…。アメイジンググレイスやリパブリック讃歌などの日本語詞をつくるときは、さまざまな本を読み、その歌の背景をよく調べていました。
そして、それらが山ノ木さんのなかで熟成し、あらたな詞がつむぎだされています。元の詞の精髄をつかみつつ、いま生きる私たちの気持ちにぴったりする言葉。
「誓い」(曲 安広真理)は、韓国の労働詩人パク・ノヘの詩「対決」の「日本語詞」なのですが、全くと言っていいほど、使われている言葉がちがう。しかし、その詞のこころはきっちり踏まえています。詩人だなあ、と思うのですが、本人は「わしの書くのは詞であって、詩ではない。詩人はやめてくれ」と照れていました。
山ノ木さんが病床で最後に創った日本語詞は、ピートシーガーの「花はどこへいった」です。
日本で長らく歌われてきたのは、おおたたかし訳詞 安井かずみ補作のものですが、原詞の一番大切な「いつになったら戦争を繰り返す過ちに気づくのだろうか」というメッセージが抜け落ちています。
山ノ木さんの日本語詞はその心に忠実に、しかもやさしい言葉で表現しています。
戦争を憎み、平和な社会をつくることをねがっていた山ノ木さんにふさわしい最後の仕事だといえるでしょう。
山ノ木さんは、病床でこのソングブックをまとめながら、「本棚に飾る本じゃなくて、ジョーヒルのつくった『小さな赤いソングブック』やかつての『青年歌集』あるいはいまの『うた・うた・うた』のように、気軽に持ち運べて、うたう会、うたごえ喫茶などで使って欲しいんじゃあ」と言っていました。
Life is short, but Art is long(人生は短い。しかし作品は永らえる)。
彼のつくった歌たちが歌われつづけていくかぎり、山ノ木竹志は生きつづけるのです。
コメントを残す