
これから『空想から科学へ』を読んでいきます。 テキストは大月書店から出ている「マルクス・フォービギナー」シリーズを使います。
引用にあたっては、どちらの本をお持ちの方でも確認できるように、「ビギナー版**ページ/古典選書版**ページ」というふうに、新日本出版社の古典選書版のページ数もあわせて書いていきます。
2つの名前を持つ本
『空想から科学へ』は、マルクスやエンゲルスがめざした「科学的社会主義」の全体像をつかむうえで、うってつけの本です。
なにしろマルクスが、この本の序文で「科学的社会主義への入門書」「よき手引き」と太鼓判を押したくらいです(残念ながらこの序文はビギナー版には収録されていません。古典選書版は9ページに載っています)。
この本は最初、1880年にフランスでパンフレットとして出版され、タイトルは「空想的社会主義と科学的社会主義」でした。
その後、1883年に出版されたドイツ語版は、「空想から科学への社会主義の発展」というタイトルになっています。
日本では、「社会主義の発展」が省略され、『空想から科学へ』というタイトルで広く親しまれています。
ユートピアは「空想」なのか?
では、「空想」や「科学」は何を意味しているのでしょうか。
「空想」を「だめな社会主義」、「科学」を「よい社会主義」という意味合いで理解するのは最悪ですね。それでは、この本に書かれている内容を正確に理解することはできません。
手元の辞書を引くと、「空想」とは「現実からかけ離れている(実行することができない)ことを想像すること」とあります。
ところが、『空想から科学へ』で「空想」と訳されているのは、「ユートピア(Utopia)」という言葉です。
ユートピアという言葉は、イギリスの法律家・政治家・ヒューマニストであったトマス・モアが1516年に出版した『ユートピア』に由来します。
ギリシャ語で「ou」は「ない」、「topos」は「場所」を意味します。ですから、ユートピアは「どこにもない場所」ということになります。
ところが面白いことに、「よい」を意味する「eu」とも音が似ています。
「どこにもない場所」であると同時に、「よい場所」でもある。和歌でいう「掛詞」のような言葉遊びを、モアは仕掛けたのです。
モアは『ユートピア』で、現実には存在しない社会を描きました。
そこから、ユートピアという言葉は「理想郷」「理想の国」という意味でも使われるようになります。
このように、「ユートピア」は、私たちが日本語の「空想」という言葉から受ける「現実離れした、実現できないこと」という意味だけではないのです。
「科学」とは
つつぎに、マルクスとエンゲルスがめざした「科学的社会主義」の、「科学」についてです。
日本語の「科学」は、狭い意味では自然科学を意味し、広い意味では社会科学も含まれます。
ところが、エンゲルスの『空想から科学へ』で「科学」と訳されているドイツ語は、ヴィッセンシャフト(Wissenschaft)です。
これは自然科学だけを指す言葉ではなく、もっと広く「学問」という意味をもっています(Wissenは「知識」という意味です)。
では、エンゲルスは、何をもって社会主義が「科学」になったと考えたのでしょうか。
『空想から科学へ』では、「唯物史観」と「剰余価値」の発見という二つをあげています。
どちらも聞き慣れない言葉ですが、このあと出てきますので、そのときに説明します。いまは知らなくても大丈夫です。
同時に世間では、「科学とは、すべての疑問を解決し、絶対に正しい答えを出すという頑なな考え方だ」とする誤解もあります。
こうした誤解に対して、私は以前、次のように説明したことがあります。
「科学的であろうとすることは『現実から出発すること』と『現実へ働きかけること』を統一して追求することです。
人間が自然や社会に目的意識的に働きかける。しかし、目的通りの結果がえられるとは限らない。
むしろ失敗の連続です。失敗したら、その原因を考える。成功しても、やはりその原因を探りだす。
そうやって科学は確かなことを広げ、それを法則や理論としてまとめてきたのです。
できるだけ誤らないようにしながら、誤りつつ、誤りを訂正し、真理へ接近していくこと。
この絶えざる過程が科学なのです。無条件に正しさを主張するのが科学なのではありません」
(『いま君にできること』学習の友社、58~9ページ)
科学について、見直したでしょう。
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