toggle

古典の修行 序 学びの道は登山のごとし 

 

古典とは何か

「古典」とはなんでしょうか? 

一般的には、古い時代に書かれた書物や、長い時間を超えて優れた芸術や学問のことだと説明されています。

マルクスやエンゲルスの時代は19世紀ですから、古いといえば古い。しかし、古ければ「古典」なのかというと、そうではありません。

「古典」と呼ばれているものは、時代を越える普遍性をもっている。

だから、現代に生きる私たちに重要な示唆を与え、私たちに考える力をつけさせてくれる作品が「古典」なんですね。

よく「実践的な学習を」というようなことが言われます。

聞いた話がすぐに役立つようなものがいい,というのです。「実践的」というのはたいてい「すぐ役立つ」「すぐ効果が出る」知識を意味しています。

「こうやったら上手くいった」みたいな体験談が多い。まねしてみて結果はどうかというとあまり上手くいかないんですね。

それはなぜか? 現実はつねに変化し、複雑だからです。

肝心なのは、無数の経験のなかから普遍性を見抜き、それを自らの生きる場で生かすこと。

そして、そういう普遍性を見抜く力をつけてくれるのが、古典なんですね。

「実践的知識」と呼ばれているものはあまり役にたたず、逆に「あんなもの読んで何になる」と思われている古典こそが本当は役に立つのです。

習うより慣れろ

古典を読むことは、自分の頭を自覚的に働かせるための訓練(トレーニング)です。

訓練ですから、実行すれば身につき、サボれば上達しません。

スポーツや音楽と一緒です。毎日でなくても、こつこつやる。それが習得のこつです。

本居宣長は、古典の読み方の極意を次のように述べています。

 初心者は、始めから分かろうと思ってはいけません。まず、だいたいをさらさらっと見て、他の本をあれこれ読んで、先に読んだ本にたちかえればいい。それを繰り返すうちに、初めには分からなかったことも、だんだん分かるようになってゆくものなのです。

 一つひとつ分かろうとしては、滞り、進まないことがある。分からないところは、まずそのままにしてやり過ごせばいいのです。特に難しいところを、まず知ろうとするのは、大変によくありません。『うひ山ぶみ』講談社学術文庫。現代語訳は二見)

これは、本当にありがちです。最初のところでつまずくと先に行けない。どうしてもその箇所にこだわってしまう。分からない自分が許せない。こうなるわけです。しかし、宣長は「そんなの読み飛ばして先へ行ったらいい」と言っているのです。

よく分かるところこそ注意して、深く味わうべきです。よく分かっていることだと思って、いいかげんに見過ごすと、細かいところも全く意味も分からず、間違った理解があっても、その誤りに気づかないのからです。

理解できるところを大切にしようと宣長はいう。そうなんです。分かっているところをよく読んでいくと、分からないところも理解できるようになってくるから不思議です。

分からないことを気にしないこと。最後まで読み通すこと。そして、何度でも繰り返して読むこと。あらゆる学習の極意なのです。

学問は登山のごとし

本居宣長は、古典学習を登山にたとえて、自らの学問論を「うひやまぶみ」(初登山)というタイトルにしました。

初々(ういうい)しいの「うひ」に「山踏み」。

宣長は「怠りてつとめざれば功なし」といます。サボってちゃダメだぞということです。

学問は、ひたすら長い年月を飽きたり怠けたりせず、励み努力することが大切で、学び方はどのようであってもよく、それほどこだわらくていいいのです。

どれほど学び方がよかったとしても学ぶのを怠けて努力しなければ、成功できません。

 この続きには次のようなメッセージが書かれています。

 ・素質のない人であっても、努力し励んでいれば、意外と業績を残す。
 ・忙しくて時間のない人も、案外、暇のある人よりも、業績を残す。
 ・素質がないことや、学び始めるのが遅かったこと、時間がないことを口実にして学問への思いを断ち切るな。
 ・とにかく、努力さえすればできるのだと心得なさい。
 ・あきらめることは、学問にとって大変好ましくない。

学問は果てしなく続く山行。登ったとおもったら、次の山が見え、下り、また登る。

だから、倦まず、弛まず、怠るな。

18世紀の宣長から私たちへのエールです。

古典の修行

空想から科学へ続く

Back to top