
本稿は拙著『いま君にできること』(学習の友社、2004年)の第2章「学ぶこと」から抜粋し、書き改めたものです。
自分の頭で考える
山田洋次監督「男はつらいよ」を観たことがありますか。そう、寅さん。
その40作目「寅次郎サラダ記念日」。
寅さんのおい、満男くんは大学浪人中で、次のように質問します。
満 男「大学へいくのはなんのためかな」
寅次郎「決まっているでしょう。それは勉強するためです」
満 男「じゃあ、なんのために勉強するの」
寅次郎「そういうむずかしいことを聞くなと言ったろう。……つまり、あれだよ、ほら、人生長い間生きてりゃいろんなことにぶつかるだろう。そんなときに俺みたいに勉強していないやつは、振ったサイコロの出た目で決めるとか、その日の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強したやつは自分の頭できちんと筋道立てて、こういうときはどうしたらいいかな、と考えることができるんだなあ。だから、みんな大学へいくんじゃねえか」
(山田洋次・浅間義隆『寅さんの人生語録』PHP)
「振ったサイコロの出た目」とか「その日の気分で決める」ということは私たちにもあります。
しかし、困ったとき、自分の生き方が問われているときには、誰もが考え、悩むでしょう。
そんなときに「自分の頭できちんと筋道立てて」考えることができれば、解決の道を探し出すことができる。
だから、「学べ」と寅さんは言うのです。
歴史を創造する主体へ
ユネスコは1985年に「学習権宣言」を採択しました。
学習権とは、
読み書きを学ぶ権利であり、
質問し、分析する権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史を書く権利である。
(藤田秀雄訳・同編著『ユネスコ学習権宣言と基本的人権』教育資料出版会)
学ぶことは、「人間をできごとのなすがままに動かされる客体から、自分たち自身の歴史を創造する主体」へ変えていく。
これが『学習権宣言』の核心です。
ふだん考えている「学習」「勉強」とだいぶイメージが違うのではないでしょうか。
では、この学習権宣言を手がかりに、学ぶことの意味を考えてみましょう。
第一に、学ぶためには、読み・書きができることが必要です。
「学ぶ」の語源は「まねぶ」(=まねる)から来ているといわれています。いままで人類が知り得たことをまねて習う。
学習という言葉も使いますが、こちらは学んで習うです。
学ぶことは、 先生や手本から知識や方法を教わることであり、習うは、教わったことを自分で繰り返し練習して身につけることです。
習うの漢字は羽と白で出来ています。羽という漢字は、ひな鳥が、何度も羽を動かして飛ぶ練習をする姿を表しています。何度も反復することの大切さを示しています。
孔子は『論語』の冒頭で「学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや」と言っています。
学んだことをおさらいし、身につけることは喜びであるということなのでしょう。
問うことを学ぶ
第二に、「質問し、分析する」こと。「質問」は英文ではクエスチョン(question)。疑問をもち、問うことです。
学ぶことを学問とも言います。訓読みすれば「学び、問う」あるいは「学んで問う」となります。
さらに「問うことを学ぶ」と読むこともできます。
古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは、政治家や芸術家など知者といわれる人たちと問答を繰り返し、「なぜ?どうして?」と追いつめ、彼らが「知ったつもり」になっていることへの反省を迫りました。
無知を自覚することが、知ろうとすることの第一歩であり、「学問する心」なのです。
既成の知識の一定量を身につけることが学問することなのではない。学問をするとは、真実をつかみたいという不断にして無限の努力そのもののことである。
(『理性とヒューマニズム』国民文庫、44-5ページ)
学習権宣言の採択より10年ほど前に書かれたものですが「質問し、分析する」の抜群の解説になっています。
「学問をするとは、真実をつかみたいという不断にして無限の努力そのもの」。学習や学問の根本がここにあります。
イマジン
3番目は「想像し、創造する」こと。「想像」は、英語でイマジン(imagine)で「思い描く」ことです。
ジョン・レノンの名曲のタイトルと同じですね。
ジョン・レノンは、天国も地獄も国境も宗教もない世界を思い描きました。
富が独り占めされず、飢えて死ぬ子もいない世界です。
それは思い描くことに留まらず、新しい現実を創りだすことに繋がります。
「学習権宣言」は、「なすがままに動かされる客体から、自分たち自身の歴史を創造する主体」へと成長することを思い描いているんですね。
国立国会図書館法の前文に「真理はわれらを自由にする」という文言があり、国立国会図書館の東京本館に掲げられていますが、これを私たちの合言葉にしたいと思います。

歴史に学び、歴史を創る
4番目に、「自分自身の世界を読みとり、歴史を書く」ことです。
この「読む」と「書く」は1番目の「読み、書く」に対応しています。
1番目の「読む」、「書く」は文字通り書物を読み、文章を書くことですが、ここでは、世界そのものを理解し、働きかけるという意味で、「読む」、「書く」が使われているのです。
私の師、芝田進午は、「学問を学ぶには、印刷された書物を読まなければいけないけれども、より基本的には『世界という大きな書物』を読まなければならない」(『人生と思想』青木書店)とよく言っていました。
そして「歴史を書く」とは、歴史を叙述するということではなく、新しい歴史を創ることに参加するということでしょう。
では、いったい何を学習したらいいのでしょうか。人間らしい社会を創るためには社会科学を学習する必要があります。
「『世界という書物』を直接読むから本はいらない」ですって?
いえいえ、世の中そんなに甘くありません。世界という書物はそう簡単には読ませてくれないのです。
「現実と私たちとの間には、知らないうちに何かビニールの膜のようなものが出来ていて、現実の真実の姿がなかなか眼に映らない」(『同時代のこと』岩波新書)と吉野源三郎さんが言っているように…。
現実は、それをとらえる訓練された特別の眼が必要であり、それが「理論」(哲学や社会科学をひっくるめてこう言います)といわれるものなのです。
科学には誤りはつきもの
さて、そもそも科学とはなんでしょうか。
私たちは自分たちの理論を科学的社会主義と呼んでいます。
すると「自分たちの主張を科学的などというのはそれこそ非科学的である」とか傲慢だとか言われたりします。
あるいは、科学的社会主義の理論は、「科学的だから正しい」と単純に理解している人もいるようです。どうも「科学」や「科学的」ということについて誤解があるようです。
「科学的」とは何かについて考えるいい本があります。
カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(新潮文庫)です。
この本の中でセーガンはエセ科学の見方を具体的に批判しながら、科学的見方の重要性を説いています。
科学には誤りがつきものなのだ。その誤りを一つずつ取り除き、乗り越えてゆくのが科学なのである。
自然や社会に目的意識的に働きかける。
しかし、目的通りの結果がえられるとは限らない。
むしろ失敗の連続です。失敗したら、その原因を考える。
成功しても、やはりその原因を探りだす。
そうやって科学は確かなことを広げ、それを法則や理論としてまとめてきたのです。
できるだけ誤らないようにしながら、誤りつつ、誤りを訂正し、真理へ接近していくこと。
この絶えざる過程が科学なのです。無条件に正しさを主張するのが科学なのではありません。
1.資本論与太話
2.空想から科学へ
3.フォイエルバッハ論
4.賃労働と資本
5.賃金・価格・利潤
6.共産党宣言
7.人間解放の経済学
8.変革のために正確に読む― 久留間鮫造と『マルクス経済学レキシコン』






