■府中町で育った少女の願いが原爆ドーム保存へ 二見伸吾町議
府中町議会議員をしております、二見伸吾と申します。府中町原水協を代表してあいさついたします。
みなさんは、原爆の子の像と佐々木禎子さんのことはよくご存じだと思います。
今日は、府中小学校、府中中学校を卒業し、1960年、高校2年の時に急性白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんのことを紹介させてください。
ヒロ子さんは1歳の時、広島市平塚町――いまの中区平塚町――で被爆しました。かすり傷ひとつなくずっと元気に暮らしていましたが、16歳になった3月中旬にからだのだるさを訴え日増しに衰弱し、検査をしたところ急性白血病だと分かりました。そして4月に亡くなります。
亡くなる前の年(1959年)の8月6日の日記に「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでもおそる(べき)原爆を世に訴えてくれるだろう」と書いていました。
原爆ドームは終戦直後には壊した方がよいという意見が根強くありました。壊すのか保存するのかの結論が出ず、なんの補修もされないまま被爆から15年のときが経っていました。
「広島折鶴の会」の小中高生が、ヒロ子さんの気持ちに応えて、ドーム保存のための署名と募金をはじめました。子どもたちの粘り強い運動は大人たちを動かした。当初、保存に否定的だった広島市長も「私の心を大きく動かしたのは、あの子たちの真剣な動きだった」と後日語ったといいます。
広島市議会も1966年、全会一致で原爆ドームの保存を決議。ようやく事態は動き出し、保存工事は行われ、世界遺産に登録され、いまなお私たちの前にドームは立っています。
来年5月にはサミット先進国首脳会議がヒロシマで開催されます。
府中町で育った少女の願いに端に発し保存された原爆ドームの姿、そして資料館の展示をしかと見て欲しいと思います。
広島出身を名乗り、『核兵器のない世界へ』という著書のある岸田総理。NPT再検討会議で、軍縮のために前進すると言いましたが、核兵器禁止条約について一言も言及しませんでした。
ヒロシマの願いを実現する政治への転換が必要です。
核兵器が廃絶される日まで頑張りましょう。本日はお疲れ様でした。
■核兵器廃絶への潮流は、確かな流れとして拡大 佐藤信治町長
皆様、こんにちは。府中町長の佐藤です。原水爆禁止2022年国民平和大行進の皆様、ようこそ、府中町においでいただきました。
1958年に始まったこの平和行進は、今年で65回目ということで、非核平和の実現に向けて、たゆみない歩みを続けて来られたこと、加えて、一昨年来のコロナ禍にあって、感染防止対策を講じながらの皆様の行動と取組みに心から敬意を表する次第であります。
さて、今日の世界は、ウクライナ侵攻をするロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を辞さないことを示唆したり、国内的にも非核三原則を見直すも声も出るなど、世界の核兵器をめぐる情勢は厳しさが増しているかのようであります。他方、今年は核兵器禁止条約締結国会議が初めて開かれました。加えて、残念にも日本は参加しなかったものの核の傘の下にある諸国もオブザーバー参加(オーストリア、ドイツ、ノルウェー、オランダ、ベルギー)し、核兵器の正当性を否定する核兵器禁止条約への道義的支持を示しました。
私は、この間の歴史の流れは、一直線とは言えないまでも、核兵器廃絶への潮流は、確かな流れとして拡大している、そのように確信したいと思います。私たちは、核兵器廃絶と平和を願う声が世界の隅々まで届くよう祈念し、ねばり強く取り組みましょう。
府中町は、全国に先駆けて「非核町宣言」を行い、以来、核兵器廃絶、恒久平和、そして安全で住みよい町づくりに取り組んでまいりました。これからも、非核宣言自治体協議会、平和首長会議の会員として、皆で日本政府が力を尽くすよう要請してまいります。
結びに、今年で被爆77年の年月が経過します。皆様方の平和行進が無事、自的地に到着され、我々の共通の願いであります、核兵器廃絶と世界平和の実現を祈念いたしまして、挨拶といたします。