たくさんの悲しみを抱えて生きる――日本国憲法の原点 ヒロシマ(2)
◆放射能の作用こそ核兵器の核心
原爆が他の兵器ともっとも違うのは放射線を出すことです。そして、極めて残酷な役割を果たします。爆心地から約1㎞以内にいた人は、致命的な影響を受け、その多くは数日のうちに死亡しました。
生き残った人には急性障害が起きます。発熱、はきけ、下痢、頭痛、脱毛、出血などが被爆者を襲いました。急性症状は半年ほどで治まるのですが、その後も長期にわたって「原爆後障害(こうしょうがい)」を引き起こすのです。白血病やがんなど様々な症状が2、3年ないし十数年の潜伏期間を経て発生し続けるなど、被爆者の健康を今日なお蝕(むしば)み続けています。
「原爆の子の像」の佐々木禎子(さだこ)さんは、2歳のときに楠木(くすのき)町1丁目の自宅(爆心地から1.6㎞)で被爆。外傷もなく、元気に過ごしていましたが、10年後の小学校6年生の秋に白血病になり、広島赤十字病院に入院。8ヵ月の闘病生活ののち亡くなりました。
入院中、包装紙や薬の包み紙などで鶴を折りつづけました。1955年の6月か7月、名古屋の女学校から病院に折り鶴が届き、みんなに配られた。それが折り始めたきっかけです。禎子さんと同じ病室で過ごした大倉記代(きよ)さんは鶴を折り始めた理由を次のように語っています。
看護婦さんに聞くと「あれは原爆症の患者さんに送ってきたから」って。禎子ちゃん本人に原爆症とは伝えていなかったらしいんですよ。だけど、彼女の耳にも入ったかもしれない。鶴はセロハンで、キラキラ輝いてきれいだったんです。それで、「うちらも折ってみようか」って。一本につないでカーテンレールにループ状につるしておいたんです。(「中国新聞」2005年3月27日)
『想い出のサダコ』(よも出版)に大倉さんは次のように書いています。
二人で折ると競争みたいになって
安静時間も消灯時間も折っていて
よく看護婦さんに叱られました。
そこで協定を結んだりもしたのですが
他にすることのない病院生活
二週間ぐらいで千羽はすぐに折れてしまいました。サダコ伝説では、病気の回復を願って一羽一羽
心を込めて折っていたがついに力尽きて……
ということになっているようですが
たしかに私が退院した後
病状が悪化していく中で
あの資料館にあるような小さな鶴を折っている時
きっと彼女は必死だったと思います。
私と一緒に折っている時も
きっと心の奥底には不安がいっぱいあったでしょう。鶴の数もなぜか諸説生まれています。
映画や本になる時
私たちはそれぞれ千羽折りました
と話しているのですが……。
映画や物語で「644羽まで折って亡くなった」「960羽まで…」といった「サダコ伝説」がつくられ、いつの間にかそれが事実のように伝えられていったのです。
映画や小説に虚構(フィクション)の部分があるのは当然でしょう。
しかし、禎子さんの「生きよう、生きたい」という思いを伝えるのに、こういう小細工はいらないと私は思います。千羽を超えてもなお折り続けた禎子さんの実像の方が、よほど原爆死の悲劇と生への思いを伝えてくれます。
◆生きることの後ろめたさ
戦争が終われば「生きていてよかった」と思うのが普通です。しかし、被爆した人たちはそう思わない。
矢野美耶古(みやこ)さんは、爆心から約4km、広島市内宇品(うじな)で被爆。市立第一高等女学校(市女)の2年生、14歳のときです。市女の生徒540人、教師7人は木挽(こびき)町(現在の平和大通りの元安川寄り。爆心から500m)で建物疎開に動員され、被爆。作業していた全員が亡くなりました。矢野さんは、たまたまお腹をこわして学校を休んでいたので助かったのです。
「戦争が終わったときはうれしかった」 と矢野さんは言います。しかし、生き残ったことが負い目になりました。
9月1日に学校が再開。1、2年で生き残った生徒たちは遺骨や遺留品の収集をしました。そのとき、ある先生から「そこの生き残り。これを運べ」という言葉を投げつけられます。この作業が終わったら死のうと矢野さんは思ったそうです。
「うちの子はまじめに作業にいって死んだ。あんたの顔は見とうない」と言われたこともあります。
死体を焼いた跡地で燐(りん)が燃え、それを見て引き込まれそうになりました。母親が「美耶古は自殺するかもしれない」とまわりに漏らしていることを知り、「家族に心配をかけてはいけない」と思いとどまったのです。
1946年の夏、水泳部に入って第1回国体に出場。一生懸命練習にうち込むなかでようやく「生きよう」という気持ちになりました。
日本被団協がおこなった『原爆被害者調査』(1985年)で、「『こんな苦しみを受けるぐらいなら、死んだ方がましだ』とか『いっそあのとき、死んでいた方がよかった』とか思ったことがありますか」という問いに「かつてそう思ったことがあった」と答えた人が17.2%(1163人)、「かつても、今もそう思うことがある」と答えた人が4.7%(319人)。
「かつては思わなかったが、今、そう思っている」「(時期は不明だが)そう思ったことがある」という人もあわせると27.4%(1851人)(1)。3割近くにもなるのです
◆生きる不安と恐れ
そんな思いを振り切って「生きよう」とする人々もさまざまな不安をあたえ続けます。
新見愛枝(にいみいとえ)さんは広島市船入(ふないり)本町231番地(今の中区舟入)にあった木造長屋の自宅(爆心から1,3㎞)で被爆。19歳でした。お父さんは義勇隊として、建物疎開の作業に隣組の人たちと土橋(どばし)(爆心から約800m) に行き、胸から上を大火傷(やけど)。13日になくなりました。
新見さんは1949年に結婚し、翌年長男が誕生します。子どもの誕生はだれにとっても喜びであるはず。新見さんの手記を紹介します。
当時被爆者には奇形児が生まれると聞いていましたから、生まれたら手足をしらべて五体満足に生まれたと喜んでいました。
しかし、生まれて3、4週間ぐらいした頃、日米共同で原爆の調査研究をしている、ABCC(現在は放射線影響研究所と改名していますが内容は変わっていません。
アメリカのために調査だけして治療はしないところです)というところから、赤ちゃんの検査に来ました。そして「この子は先天性の心臓奇形だから大事に育てて、泣かさないようにして、少しでも長生きできるようにしてあげなさい。これは被爆とは関係ない。遺伝です」と言って帰りました。
身内や親戚には遺伝にむすびつく人はいませんでした。
考えてみると、私が被爆1週間目の13日に急に高い熱が出て、心臓の調子が悪く1カ月寝たきりでした。だから長男の心臓は被爆者の子供だからだと思っています。長男の胸に耳を当てると脈の区切りがなくザ-ザ-という音だけがします。
それからは泣かせないように、笛など胸に負担のかかるようなオモチャは与えませんでした。小学校に入っても走ってはいけない、野球はダメ・泳ぐのもダメと口やかましく言っていました。小学校1年生のある日長男が「お母ちゃん、僕はこわいよ-」「ああしたら死ぬ、こうしたら死ぬ、いつ死ぬかわからんけん、こわい」と訴えました。
その時、私も同じ思いをしていた時のことを思い出しました。1958~9年頃、毎月ラジオで「今月は被爆者の死亡は三百何十人でした。今月は二百何十人でした」と毎月発表していました。それを聞く度に「今度は私ではないか。次は私か」といつ死ぬのかとこわい毎日を過ごした時期がありました。
この子もまた、同じ思いで毎日を過ごしていたのです。かわいそうに、もし早く死ぬことになっても、のびのびと暮らさせてやろうとそれからはやかましく言うのをやめました。
その後、長男は何も言わなかったので、私は安心していつの間にか忘れていました。ところが長男が中学生ころ、親戚のおじさんに「このあいだ胸が痛くて死ぬのかと思ってこわかった」と話したと聞き、やはり、何かあるごとに不安を感じているのだと思い、私が忘れていたことをすまなく思いました。
1953年、二人目の子(次男)がおなかにいる時、白血球が17,000~18,000 位に増え(普通は7,000前後)、出産後は逆に2,000~4,000位に減って、3カ月間出血が止まりませんでした。身体がだるくて熱っぽく子供のオムツを洗う力もなく、腕が痛んで絞ることもできませんでした。
自分だけでなく、子どもにまで生きる不安をあたえる。それが核被害なのです。被爆の遺伝的影響についてはまだはっきりした結論は出ていません。被爆二世、三世で元気に生きている人もたくさんいます。しかし、「影響は全くない」と言いきれない現実があるのです。新見さんの手記の続きです。
1960年頃、編物の内職をしていましたが、編み目が見えなくなったので眼科にいったら、まだ34歳なのに老眼だと言われました(被爆者は10歳位早く年をとるのだと言われました)。
1969年に頭が痛くなって医者に行きましたが、原因がわかりません。眼科、耳鼻科、脳神経科など、いろいろな病院を回りましたが、やはり原因がわからず、痛み止めの注射や飲み薬だけを飲んでいました。そのうち幻覚が表れだし、薬も効かず10日位続き、体重も3~4キロも痩せました。不安で不安でたまらなくなり、毎日死ぬことばかり考えていました。死んだらどんなにか楽になることだろうと思っていました。
この頃は全日自労(いまの建交労の源流の一つ)に勤めていましたけれども、3日に1度は休むような状態でした。それでもみんなに助けられてやっと元気になることができました。
長男も年ごろになり結婚しました。
孫(被爆三世)が生まれました。原爆から38年目です。ところが孫が生まれて20日目、熱が出て顔が半分腫(は)れ上がり、目もエンジ色に腫れあがって口の中からウミが出てきました。救急病院から大学病院にまわされました。骨髄炎だといわれすぐ手術をして命はとりとめました。もう1時間遅かったら命も危ないところでした。こんな病気になったのは私が被爆しているからではないかと1人で心配していました。入院手続のため看護婦さんが来られて「身内に被爆者はいませんか」と聞かれました。
みんなの目が一斉に私に向けられました。それまで自分のせいではないかと心配していたのに「私は知らない、私のせいではない、私は何も悪いことはしていない」と叫びたい気持ちでした。そしてその孫にも少し心臓に雑音があるといわれました。
それを聞いた長男が「かわいそうにこの子も僕と同じなのか」と、ポツンと一言いったのを聞いて、長男の今までの苦しみが、あらためてわかったような気がしました。
でも私にはどうしてやることもできないのが本当に悔しいのです。長男や孫が何をしたと言うのですか。戦後に生まれて戦争も知らないのに、何の責任もないのにあまりにもむごいと腹が立ちます。
ビキニ水爆実験(2)の被害に衝撃をうけた哲学者ラッセルと物理学者アインシュタインが「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表しましたが、そこで水素爆弾による戦争は人類に終末をもたらすと述べつつ、核による被害の本質をつぎのように述べています。
瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊していく。(湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一編著『平和時代を創造するために』岩波新書、177ページ)
瞬間的に死ぬ人よりも、生きながらゆっくりじりじりと病が進み、苦しめられてゆく人々の方が多い。一度に大量の人を殺し、なんとか生きのびた人をじりじり殺していく。それが核兵器なのです。
◆本川小学校 生徒1人、教師1人しか生き残れなかった
本川小学校は爆心から一番近い(350m)小学校で、私の子どもも通っています。今なら8月6日は夏休みの最中。しかし、1945年の夏休みは8月10日から20日までで、8月6日は授業があったのです。
3年生以上は学童疎開といって、比較的空襲の少なかった田舎で共同生活をしていました。1、2年生と家庭の事情などで疎開できない児童約400人が本川小学校に通っていました。
本川小学校の校舎は1928年7月に完成。広島市で初めての鉄筋コンクリート3階建てで、地下室もありました。1923年、関東大震災が起きましたので地震に強い建物にすることになったのです。
しかし、それも原爆の前には無力でした。400人の児童のうち、助かったのはたった一人。あと先生が一人生き残っただけです。
たった一人生き残った児童は居森(旧姓、筒井)清子さん。当時6年生でした。居森さんは原爆が落とされた瞬間、校舎地下(入口が爆心と反対の方向にあった)の下駄箱にいたのです。コンクリートの壁が熱線をふせいでくれました。
居森さんの証言を聞きましょう。
一瞬まわりがまっくらになりました。広島上空で原子爆弾が爆発した瞬間だったのです。後になって多くの人達が「ピカドン」と言って、非常に強い光と大きな音がしたと言っているのを聞きましたが、不思議なことに、私には光も見えず、音も聞こえませんでした。ただ覚えているのはその時まわりがまっくらになり、しばらくの間は何も見えなかったことです。(『本川地区被爆体験集 命のあるかぎり平和への語り』本川地区社会福祉協議会)
家族を失い、呉市の親戚に引き取られました。
ひもじい、さびしい、そして健康上の不安とたたかいながらもどうにか中学だけは卒業できました。私の父は私を女学校や大学まで行かせるのだと行って、楽しみにしていた事を覚えていますが、生きることでせいいっぱいの私にとっては、上の学校へ行くことなどとても無理なことでした。(同)
中卒で働き始めた居森さんでしたが、からだがだるくて起きていることができない日が一月のうち10日以上もあったといいます。
核兵器のおそろしさは、被爆してから何十年たってもその影響が消えないこと。
あの戦争では本当に多くの人が尊い命を失い、大切な家族や家を失い怪我をした人もたくさんおられます。原爆被害者も普通の戦災にあった一人だと言われる方がいますが、しかし私は今、皆さんに強く訴えたいのです。
原爆以外でけがをした場合にはけがが治ればたとえ傷跡が残ってもあとは心配ありません。でも私は58年経った(証言当時 引用者)今でも放射能の影響が身体に残っていて病気に苦しめられ、また発病のおそれとたたかっています。(同)
居森さんを襲った病気は、膵臓(すいぞう)がん、甲状腺がん、大腸がん、多発性髄膜(ずいまく)腫、骨髄性肉腫。
居森さんは、病とたたかいながら「私は生命のあるかぎり、わたし自身の体験を通して、戦争、特に核兵器がどんなにおそろしいものかを、又平和の尊さ大切さを機会あるごとに訴えつづけて参りたい」と語り部としてがんばっています。
(1)濱谷正晴『原爆体験』169ページ。
(2)1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で水素爆弾の爆発実験を行いました。環礁は吹き飛び、おびただしい放射性物質が「死の灰」となって広範囲に降りそそいだのです。ビキニ島から150km離れて操業していた漁船、第五福竜丸の船員23人およびマーシャル群島の住民の多くが致死量に近い放射能をあびました。空気も海水も大量に汚染され、放射能をおびた雨が日本全土にも降りました。
第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんは9月に死亡。23人のうち、12人が比較的若い年齢で他界しました。死因のほどんどは、肝臓ガン、肝硬変、肝機能障害です。被爆による肝臓への影響と治療のための輸血が原因といわれています。久保山さんが重体に陥ったとき、アメリカ側は「日本側の治療に手落ちがあった、死因は放射能ではない」と言い放ちました。
(川崎昭一郎『第五福竜丸』岩波ブックレット)。
※イラスト 岡田しおり
2.たくさんの悲しみを抱えて生きる
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