憲法のこころを聴く(1) 日本国憲法の〝こころ〟とは
もくじ

剣を鋤(すき)にかえ、槍(やり)を鎌にかえよう。
武器を鋳(い)とかして、
たがいにあいさつをかわすときに鳴らす
鐘にかえよう。
すべての諸国民がその剣をふりかざさず、
隣人を戦争で襲うことのないように。
われらすべてのものは、
平和の美しさのなかで、
幸福を心から味わうように
なろうではないか
(ブレゾヴァ・ヴァウリネス「ドマズリチェの勝利を歓呼する歌」)
なぜ「主権者力」なのか?
この講座のタイトルは「主権者力を磨く」です。
「主権者力」とはいったい何か?
そもそも「主権」っていったい何なのでしょう??
日本国憲法の三大原理は、①国民主権、②基本的人権の尊重、③平和主義だと小学校でも中学校でも社会で習いましたよね。憲法の前文と第1条に、主権は国民に「存(そん)する」(=ある)と書かれています。
日本国憲法が公布されて10か月後の1947年8月、文部省は『あたらしい憲法のはなし』という冊子を発行。当時の中学生1年生の教科書でした。この冊子では、つぎのように説明されています。
こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、国民ぜんたいの考えで国を治めてゆきます。そうすると国民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
国を治めていく力のことを「主権」といいますが、この力が国民全体にあれば、これを「主権は国民にある」といいます。
そう、国を治めていく力、それが主権(soverein power)です。そして、国民が、「主権」を行使しうる力のことを「主権者力」と私が名づけました。国の主人公として生きる力、能力のことです。
この主権者力をパワーアップすること、磨きあげることがいま大切です。
なぜなら、第一に、ワーキングプア、「派遣切り」に象徴されるように、日本社会に貧困と生活不安が広がっているからです。
13条の生命・自由・幸福追求権、25条の人間らしく生きる権利、27条の人間らしく働く権利が奪われている。これらの権利を奪いかえし、人間らしく生き、働く社会をつくらなくてはなりません。
第二に、「集団的自衛権」を認めることによって9条を空洞化させる解釈改憲、「海賊対処派兵法」のように新たな法律をつくる「立法改憲」、自衛隊を強化し、米軍と一体になって行動する「なし崩し改憲」が進められようとしているからです。
小泉内閣や安倍内閣のもとで進められてきた「明文改憲」の動きは、私たちの運動の前進、「主権者力」の向上によって、大きく後退しています。このことに十分確信をもちつつ、これらの「壊憲」攻撃をうち破る力を身につけなければなりません。
2008年12月5日に亡くなられた加藤周一さんは、その前年の11月に開かれた「九条の会」第2回全国交流集会で、安倍政権崩壊後の状況をふまえ、つぎのように提起しています。
権力側で改憲を望む人は、いきなり改憲ではなくて、むしろ解釈改憲の伝統をそれこそ生かしながら、だんだんに九条の内容を空虚にして、事実上ないのと同じようなところに追い込んでいくという手をとるでしょう。……おそらくこれからは長丁場になるでしょう。それに抵抗するには、やはり九条を守るというだけではなくて、九条を生かす必要があるのだということを強調する必要が出てくるのではないかと思います。(「報告集」10ページ)
油断してはいけないが、あせる必要はまったくありません。ぼやき、あせっているのは改憲派の方です。私たち自身の力、「主権者力」を身につけ、長丁場にわたる改憲攻撃を日々のくらしの問題と結びあわせて、たたかうことが求められているのです。
民俗学者の宮本常一さんは、まったく別の状況のもとでですが、かつてつぎのように語ったそうです。
結局、自立と連帯をすすめることのできる真に自主的で文化性を獲得した活動家や指導者を沢山生みだす運動でないといかん。運動というものはその主張に真価があるのだから、目標を具体的でしっかりしたものに限定して、そしてねばりづよく持続して追求する。
(村崎修二編著『花猿誕生』清風堂書店)
なんか、私たちのためのメッセージのように聞こえますね。
主権者力を磨くために
主権者力の内容としては、さしあたりつぎの3つが考えられます。
第一に、さまざまな困難から、なにがほんとうの問題なのかをまさぐりだし、問題提起する能力。
第二に、その問題提起にそって解決のための運動、共同行動をつくりだす能力。そのなかには、相談する能力も含まれます。相談するというのは、「役割を決定して客観世界に働きかけること」だと心理学者のいぬいたかし(乾孝)さんがいいました。命令は一方的ですが、相談は相談するものどうしが、知恵と力をだしあい、それぞれの持ち味を生かし、弱点は補いあって、ものごとをすすめることができる。だから、話しあう関係、相談する言葉をもったものだけが、いつも歴史を切り開いてきたのだ、といぬいさんは言うのです(『私の中の私たち』いかだ社)。
第三に、運動をときどき総括しながら、現状の到達点と問題点、今後の方向性を見いだし、新たな問題提起をする能力。
この主権者力は、努力さえ惜しまなければだれでも身につけることができます。
「まっすぐに社会を見つめる瞳と、『なぜなんだろう?』と素直に疑問をもてる頭と、心や身体の痛みを思いやれる心」(手塚るみ子『こころにアトム』カタログハウス)があればいい。
そういう瞳と頭と心で、「主権者学」を学ぶことが、主権者力を養う土台になります。かつて君主、王様が国を治めていたとき、「帝王学」というものがありました。世の支配者がいかにあるべきかについて述べたものです。今日では、主権者である「現代の君主」は国民一人ひとり。憲法学者の杉原泰雄さんは、「帝王学」に対する「主権者学」を提唱し、憲法学習を呼びかけています。
国民主権のもとでも、真の主権者となるために、国民に厳しい学習が求められていることに変わりはないでしょう。憲法が国民主権を宣言していても、国民が憲法政治を監視し、統制しうる真の主権者、真の市民としての力量を身につけていなければ、主権者・市民の役割を果たせないからです。……学習活動を通じて、その力量を身につけたときに、はじめて、国民は名実ともに主権者となり、ひとりひとりは名実ともに市民となるのです」(『憲法の「現在」』有信堂、287~288ページ)。
この講座は、私なりに杉原さんの提起を受けとめ、主権者力を磨くための、一つのトレーニングメニューを提案してみました。
それは、日本国憲法の内容そのもの、原点としてのヒロシマ、そして憲法を生かすために乗りこえねばならないカベとしての日米安保体制を知り、20世紀の戦争と平和の歴史をふり返り、21世紀を日本にとっても変革の時代にする展望を考えることです。
21世紀を「戦争のない地球」にするために、ともに学びましょう。
力を持ち、知識が豊かにひろがっていけばいくほど、
その人間のたどるべき道は狭くなり、
やがては何ひとつ選べるものはなくなって、
ただ、しなければならないことだけをするようになるものだ。
(ル・グウィン『影とのたたかい ゲド戦記Ⅰ』岩波書店)
イマジンと日本国憲法
ジョン・レノンのイマジン。
「想像してごらん みんな平和に暮らしているのを」
「殺したり死んだりする理由もないんだ」
「想像してごらん みんなで世界を共有しているのを」
この歌の心と日本国憲法の心はとても似ています。翻訳家の池田香代子さんも、この詞を訳しています。池田さんのイマジンの訳を読んだある青年が「憲法もこんなに読みやすかったらいいのに」と言ったことが一つのきっかになって、新しい憲法の本ができました。それが『やさしいことばで日本国憲法』(マガジンハウス)です。
この『やさしいことばで日本国憲法』は、英文による日本国憲法から池田さんが新たに「やさしい(易しい&優しい)」ことばに訳し直したもの。池田訳を読んで、「なるほど」と思い、さらに英文を読むと「うーむ」と唸(うな)ってしまいます。
この英文憲法と日本国憲法の関係は双子の関係だと、この本の「解説」でダグラス・ラミスさんが次のように書いています。
憲法の英語版を、「憲法英文」として載せている『六法』もあるが、多くの人は、「憲法の英訳」だと思っているのではないだろうか。しかし、これは歴史的にみて正しくない。憲法の条文には、もともとGHQのスタッフによって書かれ、日本語に翻訳されたものが多い。といっても、日本語の憲法を和訳と呼ぶこともまた、正確ではない。英語からの翻訳作業中に書き直されたものも多く、初めに日本語で書かれ、英語に訳されたものもある。したがって、どちらもお互いにとって「翻訳」ではない。二つのテクストは「対話」の結果であり、同時に生まれた双子なのだ。(『やさしいことばで日本国憲法』64ページ)
この池田香代子さんが訳した『やさしいことばで日本国憲法』を一つの手がかりにしながら、日本国憲法の「こころ」を探っていこうと思います。
さて、日本国憲法の〝こころ〟はどうしたら分かるのでしょうか。
「全体をよく読む」
それも大切なことです。そして、全体をよく読むうえでも、その導きの糸になるのが、実は「前文」なのです。そう、日本国憲法の〝こころ〟は「前文」にあり。
それでは、さっそく「前文」を読んでみましょう。

(1)「再び戦争を起こさせない」ことと「国民が主人公」の関係
【正文】
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍(さんか)が起こることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
【池田訳】
日本のわたしたちは、
正しい方法でえらばれた国会議員をつうじ、
わたしたちと子孫のために、
かたく心に決めました。
すべての国ぐにと平和に力をあわせ、
その成果を手に入れよう、
自由の恵みを、この国にくまなくいきわたらせよう、
政府がひきおこす恐ろしい戦争に
二度とさらされないようにしよう、と。
わたしたちは、
主権は人びとのものだと高らかに宣言し、
この憲法をさだめます。
主語は「日本のわたしたち」
うーん、いきなり長いセンテンス(文)ですね。たくさんの内容がてんこ盛りです。少しずつ区切りながら解読していきましょう。
まず、冒頭です。正文は「日本国民は」で始まっていますが、池田訳は「日本のわたしたちは」となっています。英文をみると、We, the Japanese people で、池田訳が「正しい」のです。
日本国民の要件を定めた第10条だけが日本国民(国籍を持つ人、japanese national)で、あとはすべて「人びと」(the people)であることにちょっと注意してください。日本語では、「国民」と書かれていても、国籍は関係ありません。人権の主体は「人びと」「人間たち」だということが、英文からは分かります。
戦争を起こさせないため
この冒頭の一文の結論は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、主権が国民に存することを宣言」というところですね。
池田訳では「政府がひきおこす恐ろしい戦争に二度とさらされないようにしよう、と。わたしたちは、主権は人びとのものだと高らかに宣言」となっています。
なぜ、この新しい憲法をつくったのか。それは「再び戦争の惨禍」が起こらないようにすることだ。このことが日本国憲法の原点であり、もっとも重要な点なのです。
では、この、再び戦争をしないという初心を貫くために何が必要か。その答は、じつはすぐあとに書かれています。
「主権が国民に存する」、池田訳では「主権は人びとのものだ」ということ。戦争を起こさせない最大の保証は、ふつうの人びとが主権者、すなわち、国を動かす主人公になることだ、というのです。
戦前はどうだったでしょうか。国民は臣民(しんみん)と呼ばれ、その意味するところは天皇の家来です。戦前は、天皇が主権者で、戦争を始めること、終わることの決定者であり、軍隊の最高責任者でもありました。
「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」ということも述べられています。国を動かす主人公である人びとが、自分たちの正当な代表を国会に送り込むことができなければならない。
戦前は、議会はあったものの、その権限は弱く、しかも、国民の半分を占める女性、そして25歳以下の青年は選挙権がありませんでした。
平和な社会をつくるためには、国民は主人公とならねばならない。これは戦前の日本社会からの教訓だといえるでしょう。だから、民主主義の原則を述べた次のパラグラフが大きな意味をもつのです。
(2)「おまかせ民主主義」はダメ
【正文】
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。
【池田訳】
国政とは、その国の人びとの信頼を
なによりも重くうけとめてなされるものです。
その権威のみなもとは人びとです。
その権限をふるうのは、人びとの代表です。
そこから利益をうけるのは、人びとです。
まず前半部分です。国の政治は人びとの「厳粛な信託」、重みがあって、信頼して託したものなんですよ、と言っています。

アブラハム・リンカーン
後半は、第16代アメリカ合州国大統領、リンカーンが1863年、ゲティスバーグで行った演説の末尾にでてくる「人民の人民による人民のための政治」(“The government, of the people, by the people, for the people”) を言いかえたもの。これほど簡潔に民主主義を定義した言葉をほかに知りません。
このリンカーンの定義のすごいところは、「人民の」「人民による」「人民のための」を一体のものとしてとらえている点です。私たちのための政治を求めるならば、私たち自身による政治がされなければならない、といっている。自分たちで自分たちを治める。自治ですよね。
このことは、世界史の教訓なのです。優れた(と思われる)人におまかせでは、結局、人びとは不幸におちいる。人びとが自分自身で統治する以外に、「人民のための」政治はないのだ、ということです。
佐高信さんが岩波書店から『さらばおまかせ民主主義』というブックレットを出していますが、このタイトルは戦後民主主義の弱点を鋭く突いていると思います。なにしろ、国民の半数が選挙にいかないのですから、まさに「おまかせ」。
国民いじめの政治が続いています。しかし、これを変えることはできるのです。「人民による」という原理を強く働かせればいい。一人ひとりが「主権者学」を学び、発言し、行動する。人びとが観客ではなく、「主人公」としてふるまえば、状況は一変します。
(3)人類に共通するおおもとの考えにもとづいている
【正文】
これは人類普遍(ふへん)の原理であり、
この憲法は、かかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅(しょうちょく)を排除する。
【池田訳】
これは、人類に共通するおおもとの考え方で、
この憲法は、この考え方をふまえています。
わたしたちは、
この考え方とはあいいれないいっさいの
憲法や、法令や、詔勅をうけいれません。
そういうものにしたがう義務はありません。
民主主義はユニバーサル
「これ」がさしているのは、一般的には「人民の人民による…」という民主主義の原則のことだといわれています。私も最初はそう思っていましたが、今では民主主義の原則とともに戦争放棄を含めるべきではないかと考えるようになりました。それは先ほど説明したように、日本国憲法では戦争放棄と国民主権が分かちがたく結びついているからです。
「人類普遍の原理」は、池田訳では「人類に共通するおおもとの考え」となっています。「普遍の原理」の英文をみるとユニバーサル・プリンシプル(universal principle)とあります。障害者や老人はもちろん、全ての人に使いやすい製品をユニバーサル・デザインといいますが、同じ言葉です。
戦前や戦中、日本では「万邦無比(ばんぽうむひ)」(他の国に比べるものがない)という言葉がよく使われ、民主主義などという考え方は「神国日本」「皇国」の国体にそぐわない、と一蹴(いっしゅう)していたのです。そういうことのないように、この考え方は人類にとって普遍的(ユニバーサル)な内容をもつものだと言っているわけです。
民主主義・戦争放棄に反する改憲はできない
つぎもかなり重要です。
「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅(しょうちょく)を排除する」。まず、「これに反する一切の憲法」といっていること。憲法を変えることはできるけれど、民主主義と戦争放棄に反する改憲はできないということです。
そして、法令は法律と政令、地方自治体の条例や規則など、国や自治体から発せられる、国民に対して強制力をもつすべてが含まれています。これらも、民主主義のルールに反するものをつくってはならない。最後に出てくる「詔勅」ですが、これは天皇の発する命令のことで、「詔書(しょうしょ)」「勅書(ちょくしょ)(勅語(ちょくご))」をあわせて「詔勅」。悪名高き「教育勅語」などがそれです。
日本国憲法第4条で「天皇は…国政に関する権能(けんのう)を有しない」と規定されています。権利も能力もないということです。ですから本来、「詔勅」はないはずですが、「危ない」と思ったのでしょう。第98条でもさらに「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」という念の入れようです。
(4)平和をどうやって創るのか
【正文】
日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
【池田訳】
日本のわたしたちは、
平和がいつまでもつづくことを強く望みます。
人と人との関係にはたらくべき気高い理想を
深く心にきざみます。
わたしたちは、
世界の、平和を愛する人びとは、
公正で誠実だと信頼することにします。
そして、そうすることにより、
わたしたちの安全と命をまもろうと決意しました。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」って何でしょうか?
正文で「支配する」、池田訳で「はたらくべき」と訳されている英単語は、コントロール(control)です。「支配」というと強い力が働いているという感じがするのですが、人と人とのつながりのなかにある理想という意味だと思うのです。
人と人とのつながりのなかにある理想とは、支え合い、助け合って人間は生きてきたということではないでしょうか。
ですから、ここのところを私なりに意訳すると、「人間が支え合って生きている、という事実に裏打ちされた、人間の理想を深く自覚しよう、心にきざもう」となります。
人びとが公正で誠実であることを信頼
そのことを前提にしたうえで、平和をどのように創るのか、とっても大胆な提起をします。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
すごいでしょう。ここが、日本国憲法が切り開いた新しい考え方の第1点目です。
池田訳では「わたしたちは、世界の、平和を愛する人びとは、公正で誠実だと信頼することにします。そして、そうすることにより、わたしたちの安全と命をまもろうと決意しました」となっています。
それまでの「平和のつくり方」は、どうだったか?
今の日本の政府の考えていることと同じ。強い武器を持って、相手に負けないような国になって、そしてそのことを通じて攻めさせないようにするんだというのが、それまでの一般的な平和を求める考え方だったんですね。「武力による平和」というやつです。
日本国憲法はこの「当たり前」の考え方に異議を唱えたのです。そういう形で本当に平和は守れるのか、強い武器を持っていたら本当に攻められないのか、あるいは本当に戦争は起こらないのか。このことを、日本の経験もふまえて考え抜いた。
そうしたら、大事なのは、国とか政府とかではなくて、世界の人びとを直接信頼し、そこから平和をつくるということが、遠いようで一番近いんだという結論にいたったのです。このことに、日本国憲法は世界でまっさきに気づいた。攻めてこられないように、攻めてこられないようにと、武器をたくさんもって、結局どうなったのかといったら、逆にその武器を使って攻めていったわけです。そして戦争になる。
だから、もしほんとうに戦争をやめたいと思うのだったら、世界の平和を愛する人びとを信頼するところから始めよう。
「金正日がどうのこうの」ではなく、北朝鮮に住んでいる人びとはどうなのか、中国の人びとはどうなのか、アジアの人びとはどう考えているのか…ということ。それぞれの国で暮らしている普通の人びとは戦争を望んでいない。だから、そういう普通に暮らしている人びとを信頼し、その人たちに働きかけて平和を創ろうというのが憲法の考えなんです。
実は、ユネスコ(*1)が同じ考え方に立っています。
ユネスコ憲章前文には次のように書かれています。
政府の政治的及び経済的取極(とりきめ)のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
人びとの知的・精神的な連帯によって平和を創る。これが一番強いんだ、ということ。それだけ「人びと」(people)のもつ力もついてきたのです。
だから、平和を愛する人びとが「公正」であり、「誠実」であることをまず信頼しようというのです。
「公正」の英語はjusticeで、正義とか道理という意味をもっています。「信義」と「誠実」は同じ意味で、「約束をまもる」ということです。英語はfaithで、「信頼して誠を尽くす」というのがもともとの意味だと辞書に書いてあります。
あれこれの国や政治家ではなく、それぞれの国で生きている人びとを信頼しようと決意したのです。
なにより、あの大戦で世界の多くの人びとが「もう戦争はごめんだ」と考えている。これまでの戦争で「人びと」は苦しめられ、命を奪われてきたからです。人びとは平和を強く望んでいる。だから、疑いではなく、信頼することから始めよう。これがユネスコ、そして日本国憲法の考え方なのです。
(*1)ユネスコ(UNESCO)は、United Nations Educational,Scientific and Cultural Organizationの頭文字で、国際連合教育科学文化機関といい、本部はパリにある。ユネスコは、第二次世界大戦が終わった1945年に、「人類が二度と戦争の惨禍を繰り返さないように」との願いを込めて、各国政府が加盟する国際連合の専門機関として創設。日本は1951年に60番目の加盟国となった。現加盟国は193カ国(2007年10月現在)。
(5)国際社会における努力目標
【正文】
われらは、平和を維持し、
専制と隷従(れいじゅう)、圧迫と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
【池田訳】
わたしたちは、
平和をまもろうとつとめる国際社会、
この世界から、圧政や隷属(れいぞく)、抑圧や不寛容を
永久になくそうとつとめている国際社会で、
尊敬されるわたしたちになりたいと思います。
平和を失わず4つのことをなくそう
日本国憲法は、国際社会の進み行く道を、一つのことを「なくさない」(preservation)ことと、四つのことを「なくす」(banishment)ことだと考えています。プリザベーション(維持する=なくさない)とバニッシュメント(除去する=なくす)は対(つい)になっています。
「なくさない」のは平和。「なくす」べき四つのことは、専制、隷従、圧迫、偏狭。
難しい言葉が並びましたね。一つずつ解説しましょう。
「専制」はティラニー(tyranny)で、タイラント(tyrant)は暴君のこと。ティラニーとはみんなの意見を聞かずに政治をする独裁政治のことであり、その結果は、みんなが酷(ひど)い目にあうことになるので圧政、暴政、虐政とも訳されます。
「隷従」は、スレイブリー(slavery)で、スレイブ(slave)は奴隷のことです。スレイブリーとは奴隷であること、苦役に服していることを意味します。
「圧迫」は、オプレッション(oppression)で、力で押さえつけること。
「偏狭」とは国語辞典をひくと「かたいじで度量が小さい」と書いてある。了見が狭いということでしょう。なぜこんなことが書いてあるのか、よく分かりませんでした。池田訳を見たら「不寛容」そして英語はイントレランス(intolerance)だと知り、ようやく意味が分かりました。イントレランス(不寛容)の反対はトレランス(寛容)で、宗教の違い、人種の違い、考え方の違いを認めあうということなのです。
以上をまとめるとこうなります。
独裁政治をなくそう、奴隷状態をなくそう、自由を押さえつけるのもやめさせよう、互いの違いを認めあい尊重しあおう。そして、平和な世界をつくろう。これが世界の進む道なのだ。私たちはその道をまっすぐ進もう。
「名誉ある地位」とは、そういう国際社会の進む道を、困難を乗りこえて先頭を切って進むことによって得られるものではないでしょうか。
(6)平和に生きる権利
【正文】
われらは、全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
【池田訳】
わたしたちは、確認します。
世界のすべての人びとには、
恐怖や貧しさからまぬがれて、
平和に生きる権利があることを。
平和に生きる権利の三重構造
ここに憲法がうち出した二つめの新しい考えがあります。
それが「平和に生きる権利」です。難しい言い方だと「平和的生存権」。平和な社会で生きることは、人びとの権利だということ。この考え方を世界で最初に憲法に書き込んだ。
「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と書かれています(そのもとになる考えは1941年の「大西洋憲章」にあります)。
この「平和に生きる権利」というのは、戦争がなければいいということではありません。「恐怖と欠乏から免かれ」という非常に短い文が大切で人権の歴史が実は集約されているのです。
「恐怖からまぬがれる」というのは、圧政の恐怖から免れるということ。圧政というのは国民いじめのひどい政治のことです。ひどい政治の恐怖からまぬがれて自由に生きる、という「自由権」が、「恐怖からまぬがれる」という言葉の中にふくまれているのです。
この自由権は18世紀に起きたフランス革命で世界で初めて宣言されました。
そして、「欠乏からまぬがれ」るということは、貧しさからまぬがれて、豊かに生きるということです。
これはどこが一番最初に宣言したかというとドイツ、ワイマール共和国です。1917年にロシア革命がおきて、8時間労働制や社会保障など、国民が豊かに生きるための施策が行われました。このロシア革命の影響をもろに受けたのが、近くにあったドイツ。このドイツで、ロシア革命から2年後に革命がおきます。ワイマール共和国という政府ができたのです。
この共和国の憲法、ワイマール憲法が、豊かに生きる権利、今の25条にたどりつく考え方を、世界でまっ先に提起しました(「すべてのものに人間たるに値する生活を保障する」ワイマール憲法151条)。
そして、三番めにくるのが、日本国憲法が世界で最初に提起した「平和的生存権」「平和に生きる権利」です。
ですから、平和的生存権というのは、単に戦争がない状態を意味しているのではなく、「自由で豊かで平和に生きられる世の中」に生きる権利のことなのです。そして、それが日本人だけにあるなんていうケチなことは言わない。「全世界の国民」に、そういう世の中で生きる権利があるんだと宣言したのです。日本国憲法は「一国平和主義」で、日本が平和であれば、他国のことはどうでもいい、なんて悪口を言う人がいるけど、とんでもありません。
戦争は、平和を奪うだけでなく自由と豊かさも奪います。
戦前・戦中の日本がまさにそうでした。まず、自由がない。学習会には、おまわりさんが座っている。そして、「こんな世の中はダメです、変えましょう」なんて言ったら「解散」を命じられてしまうのです。「戦争中もけっこう自由があった」なんて言う人がいますが、それはお上の許す範囲内でのこと。体制に逆らわない限りでの自由であり、批判することは許されない社会でした。その証拠が「伏せ字」です。
伏せ字とは「××」というもの。マルクス主義の文献は、ほとんど伏せ字だらけ。手元にある『ドイツ史』(改造文庫)という本の一部を紹介するとつぎのような惨状です。
深淵に顛落した挙句意識を失つたプロレタリアートは、その××××××××××××××××に生ぜしめられたこと、そうして××××××××××××××××××され得るものであることを、未だ認識する能力が無かつた。
この本は第二次大戦後、『マルクス主義の源流』(徳間書店)と改題されて復刊されます。該当個所は次のとおり。
深淵に落ちたあげく意識を失ったプロレタリアートは、その窮乏が支配階級の利益のために人為的に生みだされたこと、そして支配階級の利益との闘争においてのみ除去できるものであることを、まだ認識する能力がなかった。
この程度の内容が削除するよう命じられたのです(*2)。
そして「豊かさ」も否定されました。それは政府の作ったスローガンにあらわれている。「欲しがりません。勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「パーマネントはやめましょう」。
女性がパーマをかけることさえも否定される。日本の戦時中とは、そういう世の中だったのです。
ですから、この平和的生存権は、戦争さえなければいい、ということにはならないのです。世界じゅうの人びとが人間らしく、自由で、豊かに平和な社会に生きることが保障されなければならない、と日本国憲法は考えている。平和的生存権は三重構造なのです(*3)。
この平和的生存権について、あくまで理念的権利であり、その侵害があっても裁判であらそうような具体的権利でないという考えが学説上支配的でした。この点で、2008年4月17日に出された「イラク派兵違憲訴訟」において名古屋高裁判決が示した判断は画期的なものです。
判決は、次のように述べています。
「(平和的生存権は)単に憲法の基本的精神や理念に留まるものではない」 「裁判所に対してその保護・救済を求め、法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合がある」
判決の平和的生存権にかかわる部分を資料として載せます(太字は二見がつけたものです)。
●資料 2008年4月17日 イラク派兵違憲判決・判決文から
本件差止請求等の根拠とされる平和的生存権について
憲法前文に「平和のうちに生存する権利」と表現される平和的生存権は,例えば,「戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制されることなく、恐怖と欠乏を免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界をつくり出していくことのできる核時代の自然権的本質をもつ基本的人権である。」などと定義され、控訴人らも「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」、「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利」、「他国の民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」、信仰に基づいて平和を希求し、すべての人の幸福を追求し、そのために非戦・非暴力・平和主義に立って生きる権利」などと表現を異にして主張するように、極めて多様で幅の広い権利であるということができる。
このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。
法規範性を有するというべき憲法前文が上記のとおり「平和のうちに生存する権利」を明言している上に、憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに、人格権を規定する憲法13条をはじめ、憲法第3章が個別的な基本的人権憲法前文が上記のとおり「平和のうちに生存する権利」を明言している上に、憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに、人格権を規定する憲法13条をはじめ、憲法第3章が個別的な基本的人を規定していることからすれば、平和的生存権は、憲法上の法的な権利として認められるべきである。
そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。
例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該達意行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある。
なお、「平和」が抽象的概念であることや、平和の到達点及び達成する手段・方法も多岐多様であること等を根拠に、平和的生存権の権利性や、具体的権利性の可能性を否定する見解があるが、憲法上の概念はおよそ抽象的なものであって、解釈によってそれが充填されていくものであること、例えば「自由」や「平等」ですら、その達成手段や方法は多岐多様というべきであることからすれば、ひとり平和的生存権のみ、平和概念の抽象性等のためにその法的権利性や具休的権利性の可能性が否定されなければならない理由はないというべきである。
この判決が出たとき、当時、航空自衛隊トップだった田母神(たもがみ)俊雄航空幕僚長は「私が(隊員の)心境を代弁すれば『そんなの関係ねぇ』という状況だ」と述べ、物議をかもしましたね(その後、彼は侵略戦争を正当化する発言をくりかえし、「辞任」しました)。
(*2)訳者の栗原佑さんは本書出版の経緯を次のように書いている。
「この訳書ははじめ1936年8月、改造文庫の一冊として出版された。それはおびただしい××にみたされ、数か所は1ページ以上も××(さる大学教授は当時これを奴隷制度のバッジと評した)で蔽われて世に出た。それから6年、1942年、この訳行はH.ハイネの《ドイツ宗教・哲学史考》やG.ブランデスの《ゲエテ》の訳書とともに、共産主義的文書宣伝活動なりとされ、訳者は治安維持法によって起訴され、6年の懲役刑に処せられた」(『マルクス主義の源流』5ページ)
(*3)星野安三郎『平和に生きる権利』(法律文化社)、星野安三郎・古関彰一『日本国憲法 平和的共存権への道』(高文研)
(7)政治道徳の法則
【正文】
われらは、いづれの国家も、
自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
【池田訳】
わたしたちは、信じます。
自分の国さえよければいいのではなく、
どんな国も、政治のモラルをまもるべきだ、と。
そして、このモラルにしたがうことは、
独立した国であろうとし、
独立した国として
ほかの国ぐにとつきあおうとする、
すべての国のつとめだ、と。
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」。小泉純一郎さんが首相だったころ、自衛隊のイラク派兵にさいして「つまみ食い」した部分です。
よく、「文脈を読む」といいますが、一つひとつの文は文章全体のなかで理解することが必要です。このあとに述べられている政治道徳の法則が何を意味するのか、そこまで考えれば、決してこのような引用の仕方はできなかったはずです。
「政治道徳の法則」(laws of political morality)とはなんでしょうか。
それは、いままで述べてきた日本国憲法前文の考え方を指していると思います。
政府の行為によって再び戦争を起こさないという決意。「人民の人民による人民のための政治」という民主主義の原則。世界の平和を愛する人びとの公正さと誠実さを信じようとする姿勢。独裁政治、奴隷状態、自由への抑圧、不寛容をなくし、平和な世界をつくろうという抱負。世界中のすべての人に、自由で、豊かに、平和に生きる権利があるという「平和的生存権」の思想。
これらすべてが、新しい時代の政治的モラルの原則(laws)であり、それは普遍的(ユニバーサル)なものだと日本国憲法はいっているのではないでしょうか。これらの、新しい時代の政治的モラルの原則こそが、あらゆる力をかたむけて達成すべき「気高い理想と目的」なのです。
(8)気高い理想と目的を実現するために あらゆる力をかたむける
【正文】
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
【池田訳】
日本のわたしたちは、誓います。
わたしたちの国の名誉にかけて、
この気高い理想と目的を実現するために、
あらゆる力をかたむけることを。
ここを読むと「全力をあげただろうか」「あらゆる力をかたむけてきただろうか」と反省してしまいます。
でも、大切なのはこれから。
この素晴らしい憲法をまもり、そして何より実現するために、あらゆる力をかたむけましょう。
いまからでも決して遅くないのです。
(後編へ続く) 2009年6月稿











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