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2026-07-12

笠木親分ありがとう

 

以下は、笠木透さんが2014年になくなった直後、Facebookに投稿したものです。

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笠木透さんが〔2014年〕12月22日亡くなった。

あまりよくないということは聞いていたが、今まで何回もそういう危機を乗り越えていたので、こんなにも早く別れの時が来るとは思っていなかった。ただただ途方に暮れている。

笠木親分の歌に出会う

2009年に笠木透さんと会ってから、フォークデュオ「どすこい」の2人(私と栗栖慎一)は、笠木さんのことを「親分」と呼んでいた。ボクらは舎弟である。

親分のつくった歌にボクが出会ったのは高校生のとき。神奈川県厚木市であった「太田マキとアンサブルケーナ」のコンサートで「わが大地のうた」を聴いた。いい歌だと思ったが誰が作ったかは知らなかった。

笠木透という名前を知ったのは高校の時だったのか大学の時だったのかは思い出せない。

学生時代に、高石ともやとナターシャセブンのファンになり、お気に入りの「君かげ草」がまた、親分の詞であった。

親分の本に出会う

ボクのなかで笠木親分が格別の人になったのは、親分が書いた『わが大地のうた』(あけび書房)によってである。

法政大学で暴力学生とのたたかいに疲れ果て、戦線から離脱したときだった。

そんなとき、この本に出会った。

60年安保闘争を全力で走り回りった親分。ロクにご飯を食べることもなく、結核にかかって、この闘争に「敗北」し、激しい脱力感におそわれた。

親分は「ベトナム歌舞団」を観て目からウロコが落ちたという。

ぼくらはいつも全身全霊で闘うやり方だった。あの太平洋戦争では生活のすべてを犠牲にし、文化など二の次、三の次とし、「ほしがりません勝つまでは」で負けた。芸術や文化はぜいたくとされ、戦争に役立たないものとされ、「ぜいたくは敵だ」となって負けた。この戦争と60年安保を一緒くたに論ずるわけにはいかないが、ぼくに限って言えば、同じような闘いのやり方だった。歌をつくるなんて考えたこともなく、うたうのはデモのときだけ。アルバイトの時間をおしんでの毎日だったから、ロクな食事などしたこともなく負けた。そして、結核になったのだ。

ベトナムの人たちは、闘争ではなく、戦争をやっているというのに、歌をつくったり踊ったり、まるで戦争をしているのか、生活しているのか、わけが分からない。闘いとは、生活しながら闘うことなのだ。戦争を生活しているらしい。そして、その生活の中に、歌をつくったり、遊んだりがあるという。これはいったい、どういうことなのだ。

これを読んで、自分のたたかいに何が足りなかったのか、ボクも目からウロコだった。

意義と任務、「ねばならない」での活動、長続きするはずもない。

読んでから5年がたち、1990年、ボクは広島に来た。

今度は「ねばならない」では活動しない、学問の世界に深く沈潜し、地道にやろうと誓って戦線に復帰することにした。

結局、学問の世界に沈潜することはできなかったのだが、それはまた別の話。

労働者学習教育運動に参加しつつ、広島映画サークルに入ったり、ひろしま音楽鑑賞協会の設立にかかわったりして、親分が指し示す方向に努力したつもりである。

飛んで火に入る夏の虫

改憲の危機が訪れ、親分は2005年「連根の会」をつくり、憲法フォークジャンボリーを始めた。2009年5月17日、岡山県フォークジャンボリーに、どすこいブラザーズの相方、栗栖慎一と聴きにいった。

「広島でもやりたいね」と意見は一致。親分におずおずと「広島でやりたいんですが…」と申し出る。飛んで火に入る夏の虫であった。

ジャンボリーの全国版は2005年と06年に東京上野で、08年に京都で開催されたが、その後が決まっていなかったのだ。

ボクらは、岡山でのフォークジャンボリーと同じ、広島ローカルのフォークジャンボリーをやりたいと言ったのであって、全国から出演者と聴衆を集めるようなことを考えていたわけではない。しかし、気づいてみれば、全国版を引け受けることになってしまった。

なぜ、そうなったのかは思い出せない。まあ、いい。とにかく2010年8月7日、広島で憲法フォークジャンボリーをすることになった。

もう細かいことは忘れてしまったが、いろいろ大変だったなあ。

うん十万円の赤字もつくり、石口俊一弁護士は「大赤字ではなく中赤字だな」と笑って引き受けてくれた。

「あなたがなぜそれをするのか」と言われ、離婚の決定打ともなった。

それでもやってよかった

散々なヒロシマ憲法フォークジャンボリー。

でも、親分が亡くなってみると、あのときやっておいてよかったと思う。あのときしかできなかった。

思いを同じくする、たくさんの歌うたいの仲間が増えた。赤字にはなったが300人が参加したジャンボリー。

8時間にわたるコンサート、ヒロシマ憲法フォークジャンボリー。手前味噌ではありますが、頭から尻尾まですばらしいコンサートでした。翌朝、笠木親分が《これから二見が一生かかってもこれ以上のコンサートはできないかもしれないな》と言いました。そうなるかもしれません。《人は原点に向かって成長する》という言い方があります。おそらくボクは、2010年8月7日のジャンボリーを原点としつつ、それ以上のものを求めて、歩き続けていくことになるのでしょう。

当時のボクはそう書いている。

ジャンボリーの打ち合わせのとき、「二見さんは川の歌は作ってないのですか」(「さん」がついていたのはこのときが最初で最後だったと思う)と訊かれた。なかったので、詞を書き、相方・栗栖が曲をつけて「太田川を教えて」という歌をつくり、ジャンボリーの「平和の歌募集」に応募してみごと入賞。親分に評価されてうれしかった。●

人生は塞翁が馬

ボクは2007年に東京へ行き、あっという間にうつ病になって広島に戻ってきた。

のちのち躁うつ病だと判明するのだが、広島での憲法フォークジャンボリーの開催は、躁病のなせるわざだった。

病気になることはよくないことだ。ならない方がいい。しかし、病気になって、広島に舞い戻ってくることがなければ、2010年ヒロシマ憲法フォークジャンボリーもなかったのだ。

尊敬する詩人だった笠木透さんが、親分になることもなかっただろう。

親分に「憲法のこころをうたう」という原稿を依頼したことがある。

親分は「二見、これはおまえの仕事だ」と言って引き受けなかった。何度かインタビューもしたが、まとまった原稿にはならなかった。「おまえの仕事」と言われた以上、親分の遺した詞を読み直し、ボク自身が憲法の心とは、それをうたうとはについて考え、書くしかない。

でも親分、なんで死んじゃったんですか。

また、「たわけ」って言ってください。「病気はどうか」と訊いて「よくないです」と答えたら「ざまあ、みろ」って言って笑った親分。

親分、大好きです。

ふたみ伸吾 ほっとらいん

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