レールの向こう側

加害の歴史を伝える国の施設がない
ギュンターりつこさんが9月22日、Facebookに、おおむね次のような内容を投稿しました。
日本には、広島・長崎、沖縄、各地の空襲など、日本人が受けた被害を伝える資料館や記念館が数多くあるが、日本が他国の人々に与えた被害を正面から扱う施設は、非常に限られている。
しかも、それらの多くは市民団体や大学などによって支えられた比較的小規模な施設であり、国が責任を持って、日本の植民地支配と戦争加害を総合的に伝える施設は、ほとんど見当たらない。
なるほど。その通りです。この投稿があった22日と、その前日の21日、私は山口県宇部市にある長生炭鉱と、周南市にある回天記念館を訪れました。
長生炭鉱は、瀬戸内海に面した床波海岸にあります。
海底坑道を持つ危険な炭鉱で、全国的にみても、また山口県内でも朝鮮人労働者の数が多く、「朝鮮炭鉱」と呼ばれていたといいます。
1942年2月3日午前6時頃、海岸の坑口から1000メートル以上沖の坑道で異常出水が始まり、午前8時頃には水没するという大惨事が起こりました。
この水没事故のことを、炭鉱用語で「水非常」といいます。
犠牲者は183人。そのうち136人が朝鮮人労働者でした。
事故の事実は長く公に語られず、宇部の歴史から消されていきました。
この史実を正しく歴史に刻もうと、1991年、「長生炭鉱の『水非常』を歴史に刻む会」が結成されます。
①犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の建立、
②ピーヤの保存、
③証言・資料の収集と編纂
という三つの目標を掲げ、地道に活動してきました。
2013年2月2日、追悼碑を建立したことを契機に、さらに大きな課題である遺骨の収集に立ち向かいます。
「歴史を刻む会」は、2024年9月25日、82年ぶりとなる坑口の掘削・発見に成功し、2025年8月には海底坑道内から遺骨を発見しました。
この調査と遺骨収容は、本来、国が責任をもって行うべきものです。
すでに収容された遺骨については、日韓両政府がDNA鑑定による身元確認へ動き始めました。
しかし、坑道内に残る遺骨の調査・収容について、政府は安全性への懸念を理由に、現場作業への参加や財政支援を拒んでいます。
ピーヤや坑道、坑口などの遺構を公的に保存し、この「水非常」の歴史を後世に伝える資料館もありません。
長生炭鉱の歴史を掘り起こし、伝える仕事は、いまなお市民の手に委ねられています。
人間魚雷・回天
翌日は、山口県周南市大津島にある「回天記念館」を訪れました。
リーフレットは、回天について次のように説明しています。
「回天」とは、魚雷に大量の爆薬を搭載し、人間が直接操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器です。太平洋戦争の末期“天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて誕生しました。
「回天」の搭乗員の訓練基地の一つがおかれた大津島には、全国から20歳前後の若者が集まり、毎日厳しい訓練を繰り返しました。そして、窮地に立つ祖国を守るため、出撃していきました。
人間魚雷が兵器として採用されたのは1944年8月。敗戦の一年前です。
戦況は芳しくなく、若者を人間魚雷に乗せたところで、戦局を逆転できるものではないことは、海軍上層部にも分かっていたはずです。
1945年3月25日付の新聞は、次のように報じています。
「壮絶・肉弾潜航艇出撃 必死必中の神潮(かみしお)特攻隊」(「毎日」)
出撃した士官の遺書や搭乗員の様子、戦死した28人と親の名前や略歴、郷里の住所も掲載され、顔写真が添えられていました。
士気の高揚につなげたいという狙いが透けて見えます。
回天作戦により、搭乗員106人と整備員など39人、回天を搭載した潜水艦の乗組員811人が亡くなりました。
回天記念館
回天記念館は、「『回天』搭乗員の遺書・遺品、関連資料などを展示し、平和の尊さと命の大切さについて考えていただくことのできる平和学習施設」だと、リーフレットに書かれています。
また、回天搭乗員は「窮地に立つ祖国を守るため、出撃」したともあります。
記念館の展示は、「隊員たちが自らの命をかけて私たちに贈ろうとした『平和』。彼らの望んだ平和な未来は実現しているだろうか。そして、私たちは未来に何を贈れるのだろうか」という言葉で締めくくられていました。
「彼らの望んだ平和な未来」。大変奇異に感じました。
特攻隊員は「平和な未来」を望んで人間魚雷に乗り込んだのでしょうか。
あの戦時下で、平和を求めることは「非国民」であり、許されませんでした。
回天搭乗員は、敵艦を沈め、戦争に勝ち、「国」や家族、天皇を守ることは、もちろん考えたでしょう。
しかし、「平和な未来」をつくるために、人間魚雷に乗り込んだのではありません。
この展示では、若者の死が、今日の平和につながる「尊い犠牲」へと書き換えられています。
彼らの死には大切な意味があったことにするわけです。
しかし、果たしてそうなのか。彼らは死ぬ必要がないのに死んだ、いや、殺されたのではないか。
実戦に投入された後も、回天は故障して発進できない、目標を見失う、米軍に撃沈されるといった失敗が続きました。
そして、回天はほとんど命中しなかった。
米海軍歴史遺産司令部によると、回天によって沈没した米艦船は、わずか3隻です。
にもかかわらず、回天に乗った若者たちは、勇ましく敵艦に向かって突撃し、国のために命を捧げたという物語の登場人物に仕立て上げられました。
彼らが人間魚雷に乗って「特攻」すれば、天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させることは可能だったのか。
平和な未来に近づくことができたのか。
答えはノーです。回天に乗る必要はなく、死ななくてよかったのです。
戦争がなければ
そもそも、満州事変から始まる15年にもわたる戦争は、する必要があったのでしょうか。
満州事変は、関東軍による「自作自演」の爆破事件から始まりました。日本が仕掛けたのです。
日本が侵略戦争を始め、拡大しなければ、回天によって戦局を逆転しなければならないような事態そのものがなかった。
日本が始め、拡大した侵略戦争によって、アジアでは一千万人とも二千万人ともいわれる人びとが犠牲になりました。この人たちも、死なずに済んだのです。
藤原彰は『飢え死にした英霊』(ちくま学芸文庫)で、アジア太平洋戦争で死亡した日本軍人のうち、約140万人が餓死または栄養失調による死だったと推計しています。
被害の側にいた人びとも、加害する側に動員された人びとも、戦争と植民地支配がなければ死なずにすんだのです。
二つのレールの向こう側
「回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員」の追悼式は、毎年11月に開かれ、周南市長も山口県知事も参列します。
回天記念館は、戦後20年を経た1965年から募金が始まり、1968年に開館しました。現在は、周南市の施設になっています。
しかし、長生炭鉱「水非常」の犠牲者については、戦後80年以上が経過しても、坑道に残る遺骨の調査・収容を国は市民に委ねたままです。
「朝鮮人労働者の命は軽く、回天搭乗員の命は重いのか」と問われれば、ほとんどの人は否定するでしょう。
しかし、公的な追悼、遺骨収容、遺構の保存、資料館の整備という現実の扱いを見ると、二つの死のあいだには明らかな差があります。
回天搭乗員のことは、多くの人に知ってほしい。
長生炭鉱労働者のことは、忘れてほしい。
誰も命に軽重があるとは言いません。それでも、国や自治体の行動は、結果として死者のあいだに序列をつくっています。
長生炭鉱の写真を見ると、レールがあります。

トロッコで石炭を運ぶためのものだそうです。レールの先にはピーヤが見えます。
炭鉱夫は、海岸にある坑口から坑道に入りました。
海底下40メートルにも満たない浅い海底坑道は、漏水が絶えなかったといいます。いつ坑道が崩れてもおかしくない状況だったのです。
そこが危険な炭鉱であるということは、誰もが知っていました。
記念館のある大津島には、訓練基地まで回天を運搬するためのトンネルが残っていて、レールが敷かれた跡も残っています。

二つのレールの先に待っていたのは、不条理な死です。
この不条理な死をどのように理解し、どのような未来に結びつけるのか。
ギュンターりつこさんの「日本が他国の人々に与えた被害を正面から扱う施設は、非常に限られている」という重い指摘を、きちんと受け止めなければなりません。
長生炭鉱のような加害の歴史を示す遺構を公的に保存し、資料館を整備・運営すべきでしょう。
日本国憲法の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という決意を、誠実に実行しようと考えるのならば。












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